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Vol.237:2014年9月5日号
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よみタイムVol.237 2014年9月5日発行

日本最新事情@
国際ジャーナリスト:内田忠男


集団的自衛権行使
閣議決定をめぐり

 ご存じのように、7月1日、安倍晋三内閣が集団的自衛権行使の一部容認に踏み込む、憲法解釈の一部変更を閣議決定した。といっても、従来、「行使できない」としてきた集団的自衛権を、「ごく限定されたケースに限って行使できるようにする」というものだ。
 私は、さほど重大なことではないと思っていたが、一般市民の受け止め方は異なる。
 この後、新聞各紙の世論調査を見ていると、安倍内閣の支持率が軒並み50%を割った。就任以来最低だ。その中で、閣議決定の評価についての質問があるが、「評価する」という受け止め方が極めて少ない。一例を挙げると、7月末の日本経済新聞の調査では、「評価しない」が48%、「評価する」が36%で、12ポイントも開きがある。今回の支持率低下には、集団的自衛権の行使容認の閣議決定が直接の原因となったと考えられる。
 ただ、これまでの経緯を考えると、安倍内閣と自由民主党は、集団的自衛権の行使容認問題について、かなり早くから政策課題として取り上げてきている。直近2回の国政選挙(一昨年暮れの衆院総選挙、昨年7月の参院通常選挙)でも、自民党は公約の中にそれをきちんと掲げている。さらに、国会でも予算委員会を筆頭に、外務、防衛、安全保障などさまざまな委員会で、しばしばこの問題は取り上げられ、質疑がされてきた。政府は、その立場を繰り返し表明してきており、総理はじめ閣僚の答弁を聞いていても、木で鼻を括ったような原稿の棒読みではなく、今日の国際社会、特に東アジアの情勢変化から、我が国の防衛についての基本理念、国防関連のの法制の現状などを踏まえ、かなり丁寧に説明されたという印象を、私は持っている。

偽りの危機感あおる
有識者らの反論

 ところが、その理解が進んでいない。最大の原因はどこにあるかというと、一部の有識者を含め、世論を誘導するような立場の人たちが、非常に軽々しく政策批判をする言質を繰り返している。
 例えば、「戦争に参加する道を開いている」とか、「十分に議論がされていないのではないか」とか、「政府の説明責任が果たされていない」とか、「拙速だ」とか、そういった反対意見が少なくない、というより、多いというべきだろう。
 もちろん、議会民主主義の前提が「議論を尽くす」ことにあるのは当然だが、しかしその議論とは常に正確かつ冷静な情報分析に基づいて、真摯かつ正鵠を射たものであるべきだ。いたずらに、論旨も言葉も同じ議論が、ただ延々と繰り返されるのは、「決まらない・決められない政治」がはびこる一因になるだけである。
 閣議決定後の7月中旬、衆参両院の予算委員会で開かれた閉会中審議にしても、反対を叫ぶ陣営の発言は、従来の繰り返しに過ぎず、まったく新味はなかった。中には、「今すぐにも自衛隊が海外に出て戦争を始める」という、非常に間違った反対意見を述べるなど、世の中に偽りの危機感をはびこらせるような議論を展開するケースが目立った。
 我慢しながらテレビの中継を見ていたが、何故このような子供じみたレベルに議論を落としこんでしまうのか、と暗澹たる気持ちにさせられたものであった。
 要するに、「従来の憲法解釈というものを守りたい」という勢力と、近隣の情勢を含め、緊迫化する国際社会の新たな状況に対応できるように「日本の安全保障戦略を見直したい」という勢力が対立しているということだ。両者の議論を聞いている限り、どちらかが歩み寄って「第3の結論」が導き出される可能性はゼロに等しい。
 それならば、議会で安定多数を擁する時の政府が閣議決定で政策の方向を明示し、それに従って関連法規の改訂ないし新しい法律を作る作業に取りかかる方が、よほどフェアではないか。反対勢力は、法案審議の過程で、いま一度議論をし、反対の立場を明確にする…これが議会制民主主義の道理というものだ。

■日本國憲法第9条(※1)
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.

■国連憲章第51条(※2)
Nothing in the present Charter shall impair the inherent right of individual or collective self-defence if an armed attack occurs against a Member of the United Nations, until the Security Council has taken measures necessary to maintain international peace and security......

日本国憲法第9条と
国連憲章第51条

 それはさておき、この紛糾の大元は、日本国憲法第9条に由来することは、もう議論の余地はない。
 日本国憲法とは、当時、日本を占領する主体となっていたアメリカが、かなり綿密な草案(※1)を書いて日本に押し付け、日本語に翻訳されて憲法になった。
@日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
A前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
——このように書かれている。1947年5月3日に施行されて以来、日本の平和主義を主張する不磨の大典として守られてきた。
 しかし、この壮麗な平和の理念は、施行から僅か3年後に見直しを迫られる。1950年6月に勃発した朝鮮戦争で、共産主義が暴力をもって支配地域の拡大に乗り出す意図が明白になったためだ。
 当時、日本を占領していた連合国軍の最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が、時の吉田茂首相に再軍備を指示した。さすがに吉田首相も「勝手なことを言うな! 我々の意思に反してこういう条文を押し付けておいて、今度は再軍備か!」と、毅然と反抗。占領軍側もその不条理は良く承知していたであろう。
 最終的に、「憲法改正を必要としない」、つまり再軍備ではなく、「警察予備隊」という名で、外部勢力による日本本土侵略に対応する「専守防衛」の実力部隊を持つこととなった。
 この組織が2年後、保安隊への改組を経て、4年後には陸海空の自衛隊へ発展した。
 自衛隊ができた時点で、「自衛隊は戦力を保持しないという憲法に違反するのではないか」という議論が当然ながら起きた。私などは、当時の国会で吉田首相が「自衛隊は戦力ではございません」と非常に苦しい答弁を繰り返していたのを大変よく覚えている。
 しかし、このような子供だましのような言説(当時、私は子供だったが、その子供も騙せなかった)が、いつまでも通用するものではない。そこで援用されることになったのが、国連憲章第51条だった(※2)。
 この憲章のいかなる規定も、加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的または集団的自衛の固有の権利を害するものではない。
 この条文は、国連加盟国が、▼みだりに武力を使ってはならない、▼どうしても使わなければいけない、あるいは武力行使の可否を判断するのは、安全保障理事会、▼ただし、加盟国が突然外国からの武力攻撃を受けた場合は、固有の権利として認めている個別的ないしは集団的自衛権を使ってもよい——と、自衛のための実力行使を認めたもの。ただし、その自衛手段をとった国は、可及的速やかに安全保障理事会に報告しなければならないということが書かれている。
 日本政府は、この条文が「個別的または集団的自衛権」を、「主権国家の自然権」として認めていると解釈し、「だから専守防衛の自衛隊は違憲ではない」とする論理を構築したのだった。
 だとすれば、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」というものをあえて区別する必要があったのかどうか、という疑問もわいてくる。

安保体制の整備と
憲法改正の必要性

 1972年、田中角栄内閣の見解では、「集団的自衛権の発動は憲法違反の恐れがある」との理由で、「持ってはいるが、使えない」という解釈をした。これこそが、今回の安倍内閣の閣議決定に反対を唱える勢力が金科玉条とするところの、「変更できない憲法解釈」なのだ。
 国の基本を定めている憲法だが、我が国の憲法には、「国はどのようにして国民の生命、財産、幸福追求の権利を守るのか」という「自衛のための方策」や「自衛隊の存在」などが、一切規定されていない。
 全ての問題はここにあり、安全保障を本気で解決していく体制を作っていくためには、第9条そのものを書き換えるか、但し書きで条文を書き加えるか…「憲法を改正すべき」、という議論には一定の正当性がある。
 政治というものが、いま目前にある現実に対して「最善の対応」を求められるものであるならば、今日の国際情勢の変化、あるいは日本をとりまく国際社会の状況を考えると、とりあえず従来の「政府解釈」に手を加え、喫緊の安全保障上の必要に応え得る体制を作っておくことにも瑕疵(かし)はないと、考える。
(次号へつづく)

8月26日にジャパンソサエティーで行われた講演会より