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よみタイムVol.245 2015年1月16日発行号

 [其の52]

東洋医学を西洋に伝導
アーウィン・ユキコさん逝く

東西医学の橋渡しとなったアーウィン・ユキコさん
アメリカ建国200年にあたる1976年、ロングベストセラーとなった東洋医学の実践的理論書「SHIATSU」を出版し、米国の臨床医学界に 風穴をあけたといわれるアーウィン・ユキコさんが、昨年12月6日逝去された。アメリカ建国の父ベンジャミン・フランクリン7代目の子孫で、スコットランドの貴族アーウィン家の末裔、日系でもある。花に埋もれ、白い頬にくいこむように閉じたその唇は、89年の自分探しの一生を全うした安堵で、心なし微笑んでいるようだった。

 初めてユキさんにお会いしたのは、何年も前、キャッツキルにある禅堂で毎年催されていた灯籠流しに参加した時だった。湖水のほとりにある宿泊用の家で、偶然一夜をともに過ごすことになり、その優雅な佇まい、話し方に心を奪われたことを忘れない。
 戦前から日本では、あいのこ(混血)への無遠慮な差別があった。とくに子どもたちの世界のイジメはひどかった。しかし、家柄と財のあるアーウィン家の人々の目的は、開国したばかりの日本の海外発展に貢献することなので、宗教的な教育でこれを弁護していた。
 実業家のロバート・アーウィンがアメリカから来日したのは、明治天皇が即位した1866年、日本の近代化をめざしていた伊藤博文、井上馨、澁澤栄一などに助言し、とくに三井物産の設立やハワイ移民政策に貢献した。江戸っ子のいきと、史上初の日米国際結婚をし、ユキさんのおじ・おばにあたる2男4女が生まれた。この混血の子どもたちは全員、アメリカのエリート校に留学して学んだ後、1女を除いて日本に戻った。
 ユキさんと兄の武雄の父親リチャードも、エリート実業家となって帰国し、日本女性と結婚したのだが、就職した日本の会社の労働問題を全私財を投 げ出して解決したために、「のっとる」つもりだと誤解されて解雇され、自殺した。38歳だった。「人々の幸せのためにすべてを投げ出す」アーウィ ン家のモットーが裏目に出た悲劇だった。
 母は離婚して実家に戻り、孤児になった7歳の兄武雄と4歳のユキさんは、伯母に育てられた。
 太平洋戦争が勃発すると「あいのこ」差別はさらにひどくなった。ユキさんは相思相愛だった青年に理由なく疎まれ、彼は日本人の女性と結婚した。仮名英語が禁止になり、「アーウィン」の表記を自分で「有院」と変えながら、祖父の国アメリカを敵とする混血日本人の自分とは何なのかを考えていた。兄の武雄は出征し、満州で戦死した。
 ユキさんは自分のルーツを探ろうと、アメリカへ旅立った。渡米前に解剖学や生理学を含む東洋医学のすべてを学び、医療マッサージ療法士の免許を修得していた。しかしニューヨークでは、東洋医学は未知の分野で、いい加減な指圧治療がはびこっていた。「SHIATSU」の本を書いたのは、東西の医学の橋渡しになりたかったからだ。ある時ついに、フランクリン家7代目の子孫にあたる人物に出会った。家系図を見ると、二人はいとこ同士 だった。
 1976年のアメリカ建国200年祭は、ユキさんの人生のハイライトといえるものだった。「独立宣言書署名者子孫の会」の一人として総会に出席し、フィラデルフィア代表としてフランクリンに代り、独立宣言書を読み上げたのだ。とうとう自分のルーツにたどり着いた。時代は、差別をなくす黒人解放運動が盛んになっていた。そしてユキさんも「あいのこ」差別との戦いに勝った。

 「ね、こうしてじっと天を仰いでいると、なんにもない無限の宇宙に引き込まれるような気がしますよ。ほんとに気持のいい、吸い込まれるような。教会でも、お寺でも、ああいう魂の集まる場所は、軽くて、安らかで、なにもないのよ」
 ユキさんはよく上の方を指差し、「天」という言葉で、彼女なりのすばらしい場所を表現した。今、彼女は天にいる。どの国の人でもなく。
(飯村昭子)