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Vol.172:2011年12月23日号
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よみタイムVol.172 2011年12月23日発行号
復興支援、深まる日米の絆
清泉寮とレノックス・ストーリー


山梨県の清里にある清泉寮を舞台に、50年前の夏、祈りのための野外チャペル建設に汗を流した日米の若者たちがいる。「レノックス・チャペル」。建設に従事したアメリカの高校生たちは今どこに? チャペルの謎を追ううちに、新たな人の輪が次々に生まれて・・・。(塩田眞実)

チャペル完成!喜びを分かち合い白樺の十字架を設置する参加者とポール・ラッシュ博士(中央)

62年当時、セメントをこねるダグ・ハーディーさん(手前)ら高校生たち

当時高校生だったダグ・ハーディーさん(左)とジーン・セントジーンさん(右)に囲まれる翠さん

610月の日米合同会議の出席者と橋詰夫妻ら(チャペル前で)
ポール・ラッシュ博士の
業績と清泉寮


 これは、山梨県の清里にある青少年育成キャンプ「清泉寮」(せいせんりょう)をめぐり、その創設者であるポール・ラッシュ博士(1897〜1979)の思想と信念が、時間を超えて日米両国の絆をいかに深めたかを物語るエピソードである。
 ポール・ラッシュ博士は、インディアナ州生まれでケンタッキー州のルイビル育ち。大正12年(1923年)に起きた「関東大震災」の2年後、復興支援のために渡日。米国の国際YMCAから、倒壊した東京と横浜YMCAの再建を託されていた。翌年からはミッションスクールであった立教大学で教鞭を取り、かたわらアメリカンフットボールを日本に紹介したり、聖路加国際病院再建のための募金活動を米国で行うなど幅広い活動を展開する。
 キリスト教研修施設として、自然あふれる清里の広大な敷地に「清泉寮」を建設したのは1938年のことだった。当時まだ貧しかった山梨県の山間部に大きな可能性をもたらし、キリスト教信者のみならず多くの人をひきつけた。

 太平洋戦争が始まると一旦、米国に強制帰国させられるが、終戦と同時に再渡日して、戦後日本の復興に尽力した。運営資金集めのための米国での講演行脚も活発にこなし、48年に清里にセント・アンドリュー教会が完成。56年には、清泉寮の運営母体となるKEEP協会を設立した。( KEEP=キヨサト・エデュケーショナル・エクスペリメンタル・プロジェクトの略)
 その後も清里の地に、実験農場や、診療所、農業学校などを次々にオープン、米国に戻ることなく1979年に聖路加国際病院で没している。亡くなる直前には病床に、訪日した英国のカンタベリー大主教の見舞いを受けている。
 ラッシュ博士の亡き後、清泉寮は遺志を継いだ後継者たちの奮闘により、ネイチャーセンター、ファームショップ、やまねミュージアム、パン工房、キープ自然学校などを次々とオープンして事業を拡げ、一般の人々からも親しまれている。2005年には天皇皇后両陛下が清泉寮、ポール・ラッシュ記念センターに行幸して博士の業績を追悼している。

広がる人の輪の波紋

 さて、ここで登場願うのが、奇縁によってレノックス・コネクションを掘り起こした版画家の翠(みどり)・カーティスさんだ。翠さんは、清里で幼児洗礼を受けた際、ゴッドファーザー(洗礼親)がポール・ラッシュ博士だったこともあり、子どもの頃から夏には家族で八ヶ岳の山麓に抱かれる清里の清泉寮を訪れた。

 夏の清泉寮では、博士とも親しく接する日々を送り、間近に迫る雄大な富士と八ヶ岳をバックに、ボランティアで働く青年たちに交じり奉仕活動に加わった。
 女子美術大学を卒業、広告代理店で勤務したあと、翠さんはニューヨークに留学する。その後、コロンビア大学のジェラルド・カーティス氏と結婚。夫の専門が日本政治であることもあって、日本、ニューヨーク、さらに30年前ほどに建てたマサチューセッツ州モンントレイの家を行き来する生活を送ってきた。
 時がたち、亡き母と親しかった橋詰弘道・純子夫妻が清里に別荘を持つという偶然が重なり、ある年の春、夫妻と一緒に清里の清泉寮へ行く機会が訪れる。この時の清泉寮訪問がやがて大きな意味を持つことになろうとは…。

 それは清泉寮の広大な敷地の一画にある野外礼拝堂「レノックス・チャペル」の前で橋詰弘道さんが洩らしたひと言だった。
 「このチャペルは僕が高校生だった62年の夏に、アメリカからやって来た高校生グループと力を合わせて、近くの川俣川から重い石を運んで作ったんですよ。あの高校生たち今どうしてるだろう」。橋詰さんのひと言は、同じ頃、清里で過ごした記憶のある翠さんの心に強く残った。
 「これまで清泉寮に来るたびに何度も目にしたチャペルだったけど誰が作ったかまでは,考えたこともなかったの」と翠さんは笑う。
 橋詰夫妻とチャペルの前に立ったその日は寒く、凍てつく日だったがサインの文字ははっきりと「Lenox Chapel」と読めた。

 「レノックスとはキリスト教の聖地の名前なのかしら?」それから翠さんのレノックス探しが始まった。
 キープ協会のいろいろな人にも当たった。レノックスはどうも米国のハイスクールの名前らしい、ということだけは分かったものの、所在はまったく見当がつかなかった。
 確かな情報が得られぬまま時間が流れ、「レノックス・スクール」は霧の中にかすんでしまいそうだった。
 夫にも「見つけてどうするの?」と聞かれたこともある。それでもなぜか翠さんは「レノックス探し」をあきらめる気にはなれなかった。
 ある時、ふとした思いが脳裏をかすめる。マサチューセッツ州モントレイにある自宅の隣町の名はレノックスだ。ちなみにモントレイもレノックスも、クラシック音楽の夏の祭典が行われる有名なタングルウッドにほど近い。
 ネットで検索してみると「レノックス・スクール」という名前に行き着いた。しかし、1971年に閉校とあり、現存しないことが分かった。それでもこの学校とレノックス・チャペルは何か関係があるんじゃないか、と希望に胸を躍らせた。

 週末をモントレイで過ごす翠さん、時々、通うようになった町の小さな教会の若い女性牧師、リズ・グッドマンさんに相談してみた。
 すると前にレノックスで教えていた人を知っているという。リズさんが連絡をとってくれた相手はジム・フォーセット先生だった。その結果、50年前に清里にボランティアで行ったのはレノックス・スクールに間違いない、ということが判明する。

 さらに、その先生から、学校は失くなったけれど今でも同窓会はまだ活動している、という情報が寄せられ、「レノックス・スクール同窓会」の会長・ボブ・サンソン氏に辿りつく。「実に、灯台もと暗しだったの。30年もここに家を持っていたのに、あのチャペル建設に携わった高校生たちと、広いアメリカで隣合わせに暮らしていたなんて」と翠さんは今でも感激を隠せない。

 バラバラだったパズルの破片がひとつずつ収まり始め、全体像の輪郭が見えてきた。
 サンソン同窓会長は翠さんに清里での奉仕活動に参加した高校生メンバーの一人、ダグ・ハーディーさんと学校史を管理しているランディ・ハリスさんの二人を紹介してくれた。
 「やっと辿りついた!」。
 レノックス同窓生たちの結束は固く、閉校から40年が経つ今でもレノックスをこよなく愛している。レノックス・スクールの跡地にできたシェイクスピア劇場に毎年に集まって同窓会を開いて旧交を温めている。
 ダグ・ハーディーさんとランディ・ハリスさんの話で、62年に日本に向かった高校生一行は、21人の高校生たちと引率教師2人の計23人だったことも判明する。
 62年の夏にカリフォルニアから船で出港したため、レノックスは西海岸にある学校と思われたようだ。この高校生たちのひと夏の行動は、前年の61年に、レノックス・スクールに来校したポール・ラッシュ博士の呼びかけに応じたものであったこともわかった。あらゆる資料がきちんと保管されていて、今後のKEEPの活動にも重要な資料となりそうだ。
 レノックス・スクールのモットーは「To Serve, Not to be served」(仕えられるためでなく、仕えるために)で、ポール・ラッシュ博士の思想と同じ。博士は、高校生たちを前に、是非日本へ来るよう熱弁をふるったという。

 この話は、モントレイのローカル紙「モントレイ・ニュース」が強い関心を寄せ、2011年、6月から9月まで4ヵ月にわたって記事を連載した。
 この時の執筆者、メアリーケイト・ジョーダンさん、翠・カーティスさん、牧師のリズ・グッドマンさんの3人の女性には、レノックス・スクール同窓会から「思いもよらぬ(improbables)女性たち」という「ニックネーム」が贈られ、300人以上が集まった男子校の同窓会に温かく迎えられた。
 もう一人、「当時の高校生」ジーン・セントジーンさんと交わした清泉寮の思い出話も、翠さんにとって忘れられないひと時となった。

 こうして「レノックス探し」は「チャペル建設参加者」ばかりでなく、「レノックス・スクール同窓会」、さらにシカゴに本部を置く「ACKEEP(キープ協会アメリカ委員会)」の三者を強く結びつける思いがけない結果を生んだ。
 きっかけを作った翠さんは、「東日本大震災」の直後、請われてACKEEPの理事に就任、文字通りアメリカ側と日本側の橋渡し役として10月には清里で両者の国際会議に参加している。
 「私はアーティストで、理事としてどこまでできるか分からないけど、若い頃、多くを学んだKEEPの為に何かの形で恩返しが出来たらと思います。KEEPはこれまで言葉の問題で日米の間に距離感が生じていたようですが、いま、大震災の復興という共通の目的もあり、ポールさんの哲学の原点に戻って前に進みたいと思います」と決意を述べた。
 関東大震災で来日し、戦後の復興にも従事したポール・ラッシュ博士の「奉仕の精神」は、今また時を越えて東日本大震災の復興に向けられている。
 「レノックス・チャペル」という水に投じられた小石から生まれた小さな波紋は、人の輪となって今ゆっくりと広がっている。