2020年2月7日号 Vol.367

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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復興遂げた日本の光と影


大阪万博の開会式(写真提供:大阪府)


新生日本を世界へアピール
「大阪万博」


ちょうど半世紀前になる1970年。この年は、大阪千里丘陵で日本初の万国博が開かれた。
東京発祥の読売新聞も1952年に大阪読売新聞を発刊して、大阪発祥の朝日、毎日を追撃し、遜色のない部数にまで伸ばしていたが、東京本社にいる私たちからすると、「大阪は後発」の思いが強く、万博開催に当たっても東京社会部が然るべき取材をするのが当然といった空気があった。
戦災から復興した新生日本は、19 68年にGNP(※注)でアメリカに次ぐ第二の経済大国になっていた。敗戦から四半世紀を経ずして主要国の一角に加わるまでに成長した姿を世界に発信する万博は、6年前の東京五輪に次ぐ第二の国家的行事であり、注目しない訳には行かない。私は前の年の11月ごろから先輩の遊軍記者らとも語らって、万博担当大臣だった宮澤喜一氏や会場の総合設計の指揮をとった丹下健三氏、テーマ館の総合プロデューサー岡本太郎氏らに単独インタビューする一方、幾度か大阪に出張して準備状況をつぶさに見てきた。
その成果を、年の初めから夕刊一面に『日本万国博』のタイトルで連載を始めた。「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、高度経済成長を続ける日本が、大量生産・大量消費の社会とどう向き合っているかを世界に問う万博の意味を、多角的・多元的かつ文明論的に検証したもので、「万国博を考える会」のSF作家小松左京氏や文化人類学の梅棹忠夫氏らからお褒めの言葉を頂いた。

日本における初のハイジャック
「よど号事件」


77ヵ国の参加を得て、3月15日に華々しく開幕……東京に帰ってヤレヤレと思ったのも束の間の3月31日、朝早くに「至急出社」の呼び出しを受ける。7時ごろに福岡に向けて羽田を発った日航機よど号が爆弾などを持った過激派にハイジャックされたという。社に着いた頃には、よど号は福岡板付空港に降りていたが、犯人らは北朝鮮・平壌への飛行を求め、午後1時過ぎに乗客の中から病人と女性・子ども・高齢者23人だけを解放、離陸して行った。
この時点で、私は韓国ソウル近郊の金浦空港に行け、との指示を受ける。旅券もなければ韓国の入国ビザもないまま社会部、写真部の4人と共に羽田に向かったが、間もなく5人分のパスポートが届いた。外務省に旅券の緊急発行と韓国査証の手配を頼み、神技に近い短時間でそれらを取得したようだった。当時の有力新聞社は、こうした離れ業をやってのける力を持っていた。
金浦空港の隅っこには、よど号の特徴ある機体(B727)がヒッソリ駐機し、機内には実行犯の赤軍派9人と乗客99人、乗員7人がいるはずだった。日本にとって初めてのハイジャック事件だったが、日本当局はかなり早い段階で、平壌には行かせず、金浦に降ろすことを韓国側の協力取付けも含めて決断していたようだった。
私たちは、それから3日3晩、金浦空港を一歩も出ることなく、空港敷地内でよど号の動きを注視するだけの時間を費やすことになる。4月3日午後になって、山村新治郎・運輸政務次官が身代わりの人質となって平壌まで同行することにし、乗客99人と客室乗務員4人が解放された。よど号は午後6時過ぎ、夕闇の空港を北に向け離陸して行った。
解放された人質の中には、虎ノ門病院長だった沖中重雄氏や、当時、聖路加病院内科医長で後に病院長・理事長となった日野原重明氏が含まれていた。そうした一連の送稿を終えて私たちは初めてソウルの街に出た。ソウル特派員だった社会部の先輩が手配していた妓生パーティの接待を受けることになる。私にとって新聞社における最初の海外出張は、金浦空港での長時間の張り込みと妓生パーティで終わったのだった。

人間味溢れる本田宗一郎

その年の夏になる頃には、私は社会部国際班だけでなく、公害と消費者問題も担当するようになっていた。そうした中で印象に残っているのは、当時本田技研工業が販売してベストセラーになっていたN360という軽乗用車に欠陥があるのではないか、というキャンペーンだ。読者からの通報が端緒で、N360による死亡事故が起きた国内各地に出向き、事故の態様を詳細に調べて回った。結論として得たのは、N360が卓越した性能を持っており、その高性能故にスピードが出る、そして高速になると操縦安定性に不安を生じ、並のドライバーには制御不能になることがある……ということだった。
ホンダといえば本田宗一郎という稀有の人物が創始した企業で、私はかなり早い時点からホンダの広報に、社長に会わせて欲しいと頼んでいたのだが、言を左右にして取り合ってくれなかった。
けれどもホンダにとっても事態は急を告げていた。警察庁や運輸省が何らかの行政措置に乗り出す動きを始めたのだ。1971年3月のある日、やっと本田さんと単独で会える機会が到来した。当時のホンダ本社は八重洲近くにあって読売本社とは同じ外濠通
りに面した至近距離にあった。
指定された午後3時に役員応接室とかいう広い部屋(ホンダに社長室はなかった)に通されると、本田さんが息咳切った様子で額の汗を拭き拭き登場……一瞬、キザな人だなと思ったが、誤解はすぐに解けた。
「いやァ内田さん、今回は有難う。私たちは良い車を作ろうと一所懸命やってるんだけどネ、使う人の身になることを時々忘れちゃうんだナ。それを思い切り教えて貰った。けれどホンダはこれから、トヨタや日産に負けない良い会社になりますよ」
自ら創業した会社が手塩にかけて開発しベストセラーにもなっている車にケチをつけた憎っくき記者に対して礼を言うことから始めたのだ。引き込まれた私は質問を連発、本田さんは間髪入れずに答える……その応酬が何とも小気味良かった。インタビューを終えて帰社した私は、紙面制作をする整理部に直行、「明日の朝刊、『人間登場』の欄を下さい」と頼んだ。「誰?」と整理部デスク、「本田宗一郎!」と私。即決だった。
渾身の記事ができ、翌日の紙面を飾った。読んだ本田さんにも満足して頂けたようで、それから幾度か、夕食のお誘いが掛かるようになった。
ソニーの盛田昭夫さん、ウシオ電機の牛尾治朗さん、伊藤忠商事の瀬島龍三さん……お会いして印象に残る財界人は数多くおられるが、本田さんの人間味と迫力は、他の追随を許さぬほど出色で、私自身の生き方にも教えられることが多かった。(つづく)

※注:GNP 当時は現在の国内総生産「Gross Domestic Products」 でなく国民総生産「Gross National Products」を使用。

備考:① 読売新聞の過去記事はウェブサイト「ヨミダス」で閲覧可能(有料)。https://database.yomiuri.co.jp
② 「大阪万博」についての詳細は「大阪万博 万博記念公園」で検索。もしくは「万博記念公園」ホームページへ。
https://www.expo70-park.jp


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