2020年3月6日号 Vol.369

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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捕鯨で袋叩きに…
ストックホルム会議



札幌五輪から帰京すると、1972年はさらなる大仕事が待っていた。
この年、6月に国連が環境問題に関する大規模な国際会議をスウェーデンのストックホルムで開くことになっており、これに派遣されることが決まったのだ。
日本では「急ぎすぎた経済成長」のツケとして、全国至る所で発生した水俣病やイタイイタイ病、四日市ぜんそくなどの公害病が大きな社会問題となり、1970年には内閣に公害対策本部、翌年には環境庁が発足するなど、公害先進国としての対応が始まっていた。そうした折の「国連人間環境会議」とあって、読売社会部も飛び付いた。国連会議のスローガン『Only One Earth』を邦訳した『かけがえのない地球』を年間テーマとして、大々的なキャンペーンを張ることになり、ここでも私の語学力が重宝されることになる。
大気や水の汚染、自然破壊……このまま放置すれば、私たちの住む地球そのものが取り返しのつかない事態になる、という危機感が急速に広がりつつあった。国連会議は6月5日から16日まで12日間、環境問題のあらゆる側面について、突っ込んだ討議をしようと計画されていた。
社会、政治、外報3部の混成で特派員団が構成されたが、私はその先陣を切って5月24日にはストックホルム入り、29日、30日にスウェーデンの港湾都市イェーテボリで開かれた産業人による環境会議を取材報道したり、隣国デンマークにも足を踏み入れるなどして開幕に備えた。
この会議には、前年秋の国連総会で台湾に代わり代表権を得たばかりの中国が31人の代表団を送り、積極的に討議に加わった。そうした中、日本の報道陣が特に強い関心を寄せたのは、アメリカが先頭になって提案した商業捕鯨の10年間禁止案だった。いまや捕鯨禁止は世界世論となり、追い込まれた日本は、昨年ついにIWC国際捕鯨委員会を脱退してしまったが、国際会議で捕鯨禁止が本格的に議論されたのは、この国連人間環境会議(United Nations Conference on the Human Environment:通称・ストックホルム会議)が初めてだったと思う。
開幕早々、日本代表団の首席、大石武一環境庁長官がラッセル・トレイン米大統領環境問題諮問委員長と会談したが、禁止の対象を「絶滅に瀕した鯨種」のみに絞ろうという日本提案は一蹴され、物別れに終わる。
委員会の決議採択は5日目の9日にやってきた。スウェーデンと日本の時差は8時間。当時、読売新聞の朝刊最終版締切り時刻は午前0時50分だったと記憶する。採決に向けた会議は日本時間で10日午前0時にあたる午後4時ごろ始まるというが、東京本社は「何がなんでも朝刊に突っ込め」。私は同僚記者に会議場内の公衆電話で東京とつなぎ、無駄話をして私が飛び出して来るのを待つよう頼んだ。
むろん、原稿など書いている暇はない。会議の動向を注視してメモを取り、それをもとに、原稿を頭の中で作りながら電話で吹き込む。電話を受ける方も速記者ではないから書取りに多少の時間はかかる。その微小な隙に次の文章・文節を考える……という手法。私たちは、これを「勧進帳」と呼んでいた。
ご存じの方が多いと思うが、勧進帳というのは歌舞伎18番の一つ。源頼朝の不興を買った義経が奥州へ逃げる道筋で加賀の安宅の関にさしかかった時の物語である。山伏姿で一行の先頭に立った武蔵坊弁慶が、焼失した東大寺再建のための勧進(寄付集め)の道中だと説明するが、関守の富樫左衛門には義経一行が山伏姿だとする情報が届いており「山伏は通行罷りならぬ」。さらに富樫は弁慶に「勧進帳を読み上げよ」と命じる。弁慶は咄嗟に持っていた巻物を勧進帳であるかの如くみせかけ、架空の文章を淀みなく朗々と読み上げた。この機転に感心した富樫は通行を許すが、部下の一人が強力(ごうりき)に扮した義経に疑いをかけた。弁慶は主君を金剛杖で叩き、疑いを晴らす……。
「勧進帳」で読み上げた私の原稿は、翌日朝刊の一面トップを飾った。
[ストックホルム内田特派員9日発]クジラの十年間捕鯨禁止問題で日本は惨敗を喫した。天然資源の管理問題を審議している国連人間環境会議第二委員会は、予定よりまる一日以上遅れて、9日午後3時50分(日本時間同11時50分)からクジラ問題の審議に入り、同午後4時半過ぎ(同10日午前0時半過ぎ)表決の結果「十年間捕鯨禁止協定をIWCの呼びかけにより関係諸国で早急に締結するよう勧告する」というアメリカ案を賛成51、反対3、棄権12の圧倒的多数で採択……。
文中の日本時間を見れば、いかに切迫した時間だったか、お判り頂けると思うが、これは、ホンの書き出しに過ぎず、この後に本文15字x105行、400字詰原稿用紙4枚分にあたる記事が続く……アメリカ代表の発言に万雷の拍手がおき、二階の記者席からはクジラの鳴き声を真似た歓声をまじえた拍手が起きた。この瞬間、日本の敗北は決定的となった。(その後)討論の口火を切ったマルタが「アメリカの素晴らしい提案に賛成する」。あとをスウェーデンが引き継いだ。開幕以来、一貫してアメリカの戦争非難を続けてきたこの国までが初めてアメリカに同調した……つづいてカナダ。「日本案は理解できない……カナダはモラトリアムを支持する」。さらにフランス代表が「われわれも米案を強く支持する」。日本はまさに袋叩き。開幕前「開発途上国はじめ、少なくとも20ヵ国以上は日本を支持するだろう」と言っていた日本代表団の楽観論はこっぱみじんに打ち砕かれた……。
「勧進帳」の電話送稿を終えて1時間余り、東京のデスクからプレスセンターの読売ブースに電話がきた。「ご苦労さん、原稿、全部入ったぞ、もう輪転機回ってるよ」嬉しい労いだった。翌日、「よその新聞は通信社電の小さな一報だけ。「ウチの独走だな」有難い労いの追伸だった。
会議最終日の16日も「勧進帳」だった。「人間環境宣言」採択のための本会議は日本時間午後11時過ぎ開会という嫌な時間だ。宣言内容などは別途先送りしていたから、ナマ送りの記事は付け足しのようなものだったが。
[ストックホルム内田特派員16日発]「人間環境宣言案」を審議する国連人間環境会議は、16日午後3時過ぎ開かれ、作業部会の報告につづいて、インドが同部会案を支持、タンザニアが核兵器条項について「BC(生物化学)兵器の罪悪を核兵器と同列に扱わないのはおかしい」と親中国的発言を行なった。引き続き中国の唐克主席代表が演説。その中で「米帝国主義の追随者」として、日本を厳しく非難した……。
このように国連会議から目が離せない中で、ベトナム戦線を脱走してストックホルムに潜伏していた米軍兵士を突き止め、彼らとの独占インタビューも試みていた。よく働いたものである。(つづく)


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