2020年4月17日号 Vol.372

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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72年、浮き彫りになった
環境問題とふたつの悲劇


川端康成、上野桜木町の自宅にて (1929年〜1934年の間に撮影)


1972年に戻る。

欧州から帰り、旅行中に集めた膨大な資料を整理しながら、特集面の記事作成に忙殺されたが、8月末になるとミュンヘン五輪が始まる。西独旅行中に五輪施設の下見もしていたことから「土地勘があるだろう」と、五輪原稿のキャッチャーに指名された。
キャッチャーというのは、現地特派員団から送られてくる原稿を読み易い文章にリライトしたり、日本で見ているテレビの実況画面や外電各社のティッカーが伝える情報なども加味して補強補足し完全原稿にする、社会部遊軍記者にとっては大切な仕事の一つである。時として、締切り時刻間際になると、特派員電が入らなくても、東京で集めた情報で記事を作り、「特派員団」のクレジットで原稿を書いてしまう場合もあった。
この五輪は、日程が後半に入った9月5日に「黒い9月」を名乗るパレスチナ武装組織が選手村を襲い、イスラエル選手11人を血祭りにあげる凶悪テロが起きたことでも記憶される。事件で中断した競技をどうするか、世界が注目するなか、IOC国際オリンピック委員会は競技の続行を決断する。それがまた、欧州と日本の時差の関係で、日本の新聞にとっては締切りギリギリの際どい時刻になった。現地電が間に合わないと判断したデスクは、私に「お前書け」という。かくして7日付朝刊一面トップ記事は、特派員団に成り代わった私が書いた。
【ミュンヘン読売特派員団六日発】パレスチナ・ゲリラグループによるオリンピック村襲撃事件の悲劇的な結末により、近代五輪史上かつてない危機に直面した第二十回オリンピック・ミュンヘン大会は、六日早朝招集された国際オリンピック委員会の緊急理事会で、会期を一日延長、残りの競技を続行することに決定した……組織委は、この決定に基づき、直ちに各競技ごとの日程の変更・調整作業に入り、同日午後四時五十分(日本時間七日午前零時五十分)から丸一日ぶりで競技が再開された。一方、惨劇で死亡したイスラエル選手十一人の追悼式は、同日午前十時から、八万人の参加者で埋めつくされたオリンピック・スタジアムで行われ、IOCのブランデージ会長が、悲しみのなかに大会の再開を宣言した……

再び環境問題……この年11月末には、当時の美濃部亮吉・東京都知事の呼びかけで、ニューヨーク、ロンドン、パリ、モスクワの4都市代表を招いた世界大都市会議が東京で開かれ、これを取材した私は、年間テーマ『かけがえのない地球』の45回目になる12月4日付けで詳しく取り上げた。
……各都市首脳の報告には多くの共通項が見いだされ、都市問題の解決が、人類の将来にかかわる全地球的な課題であることが浮き彫りにされた。とりわけ痛感されたのは、苦悩を共にする諸都市の中でも、東京の病状が際立っていること、そして根本的な解決策はおろか、対症療法さえ十分でないことであった……
今から半世紀近くも前に、グローバリズムを連想させる「全地球的課題」に言及したこの前書きの後に、「霧の都」と呼ばれたロンドンが家々の煙突から吐き出される排煙中の有害物質を厳格に規制する大気清浄化諸法を1950年代から整備してスモッグを退治したこと、ニューヨークはじめアメリカの大都市がアーバン・ロビーを結成して共通の都市問題を語り合い、優先順位の高いものから実行すべく連邦政府に圧力をかけていること、パリでは都市再開発に際し、緑を台無しにしたと市民から強い反発が出たことなど、議論されたエピソードを紹介した。

話は前後するが、ストックホルムに出発する前の4月には、こんなこともあった。
たまたま日曜日で、宵の口から珍しく家にいた私に呼び出しがかかった。ノーベル賞作家の川端康成氏が自殺したというのだ。読売本社は前年10月に銀座3丁目から大手町(現在の社屋と同じ場所だが建物は先代にあたる……でも当時は新社屋)に移転していたが、当時私は駒込の実家に住んでいて、タクシーに乗れば15〜20分で行けた。社会部に上がってゆくと、既にアルバイトの給仕君が川端関連の資料をどっさり運んできて、
私が座る遊軍席に積み上げていた。
川端氏は鎌倉に住んでいたから、本記を書くのは地方部の横浜支局と鎌倉通信部だが、一面トップの前書きは例によって社会部が作る……さらに、地方部から来た原稿も全て社会部経由となっており、その山もリライトされるのを待っていた。
私は文壇のパーティでご挨拶した程度で、親しくお会いしたこともなければ昵懇に会話したこともない。代表的な作品はむろん読んでいた、という程度。そこでまず、地方部から来ていた原稿や、別の遊軍記者が電話でとってくれた文壇関係者の談話などに目を通し、資料の山から、川端さんの人柄に関するものを選んで読み始めた。
とは言っても、読売読者の密度が高くなる近県に配布される紙面は直ぐに締切り時刻がやってくるのでゆっくり読んでいる余裕はない。とりあえず、略歴を千字余りにまとめて出稿。前書きを書きにかかった。
……ノーベル賞作家、川端康成氏は、十六日夜、自邸からほど近い神奈川県逗子市のマンションの一室でガス自殺した。川端氏はさきに割腹自殺をとげた三島由紀夫氏が師と仰いだ人で、最近は胆のう炎をわずらうなど健康にも自信をなくし、しばしば厭世的な言葉をはいて、周囲を心配させていた。同日午後「散歩に行く」と家人に告げたまま消息を断ち、捜しに出た家人が自殺を発見した。カギをかけた密室で、ひとりガス管を口にした川端氏の死は、新感覚派の中心的存在として虚無的・耽美的な独特の作風で知られた同氏にふさわしい孤独の死かもしれない。代表作は「伊豆の踊子」「雪国」「千羽鶴」「山の音」など。その多くは十五か国語に翻訳され、現代日本の代表的作家として、広く世界に知られていた。さる四十三年、ノーベル文学賞を受け、湯川秀樹、朝永振一郎博士(物理学賞)についで、日本人としては三人目の受賞者だった。同氏死去の知らせは、日本の文壇はじめ、世界中の日本文学愛好者に大きな衝撃を与えている……
前書きとしては、かなりの長文だが、後に続く本記は【横浜、鎌倉】のクレジットで、地方部出稿の原稿をリライト。その中に……文壇仲間など親しい人たちに「飛行機に乗った時、ここで落ちれば良いと思ったりする」などと話し、この秋、日本で開かれる国際ペンクラブ総会の資金集めの重圧なども衰弱しつつあった川端氏の精神を追いつめたとみられる。一昨年秋には愛弟子の三島
由紀夫氏を失い、昨年春の都知事選では、政治にかつてない情熱を見せて応援した秦野章・元警視総監が落選するなど、晩年の川端氏の周辺には意のままにならないことがつぎつぎに起きていた。これらすべてが、とぎすまされた感受性と繊細な神経の持ち主にとって耐えがたいことだったのかもしれない……などと書き加えていた。(つづく)


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