2020年5月8日号 Vol.373

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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大統領の犯罪と功績


ウォーターゲート事件の録音テープを編集した資料を 公表するニクソン大統領(1974年4月29日)


札幌五輪から欧州出張など、超多忙のうちに暮れた1972年。その反動か、翌年から2年ほどは、記憶に残るような仕事をしなかった。その代わり、と言っては何だが、73年夏に某経済人のお供でアメリカ西海岸を旅行した。勝手に職場放棄をする訳には行かないから、新聞社に入って初めてと言える少し長めの夏休みをとって出掛けた。

72年のロービングですっかり欧州が好きになり、「どこまで行っても同じ国、ただ広いだけのアメリカ」にさして魅力を感じていなかったが、その経済人は事業の米国進出を考えており、事と次第では私をその事業に取り込もうとの意図があったようだった。
アンカレッジ経由でサンフランシスコ空港に着き、この旅に同行してくれるアメリカ人のコーディネーター3人と落ち合い、ベイエリアの投資向き物件を幾つか見た後、北に飛んでシアトルを見、車で国境を越えてカナダのヴァンクーヴァーにも行った。

そこから今度は南下してロサンゼルス、ビバリーヒルズ、そしてラスベガスに行き、最後はサンディエゴに下ってメキシコ国境周辺までを見た。10日ほどの旅だったから、かなり忙しい日程だったが、印象に残ったのは、アメリカという国の広さ。そこに人々が豊かにゆったりと暮らしていた。ひたすらあくせくと働くことに不満も矛盾も感じていなかったが、カリフォルニアの青い空と、どこまでも開放的に見える風土に浸っていると、欧州と違う途方もない大きさの中に引き込まれて行くような感覚さえあった。ただ私には、ここでビジネスをするという感性は生まれなかった。

その代わりに、ウオーターゲート事件で問われた「大統領の犯罪」を巡り、連邦議会でのヒアリングが佳境に入っていた時期で、どこの家に行っても、テレビがその模様を大写しにし(受信機も日本の平均的な家庭にあるソレよりはるかに大きかったが)、私たちを迎えてくれた人たちが、会話の途中、かなりの頻度でテレビ中継に注意を向けているのが読み取れたことだった。

この事件、ワシントンポスト記者の精力的な調査報道で明るみに出たもので、1972年の大統領選挙で再選を目指していたニクソン大統領の陣営が、首都ワシントンのウォーターゲート・コンプレックスにあった民主党全国本部に配下の者たちを侵入させ、盗聴器を仕掛けようとして警備員に見つかった……この不法行為について、ニクソン再選委員会の幹部たちは、さまざまな揉み消し工作や捜査妨害を展開、大統領自身も事件直後から「ホワイトハウス内部に事件に関係した者はいない」などとウソをつき、翌年、議会上院にこの事件調査のための特別委員会が設置された前後から、側近の辞任が相次ぐなど次第に追い詰められ、ある筈の録音テープを「ない」と言ったり、支離滅裂な対応を重ねるようになっていった。

一見、ラチもない不法侵入事件のようで、実は大統領周辺の数々の悪意が見え隠れし、大統領のウソもあからさまになってくると、選挙で選ばれた大統領といえども不正は断固として許さないというアメリカン・デモクラシーの一端というか真髄というか、とにかくその実相に触れた思いがしたものだった。

ニクソン大統領は、それから約1年後、弾劾の不可避を知って自ら大統領職を辞任するが、事件で問われた民主党本部盗聴と事実隠蔽の犯罪性はともかく、外交面では台湾に逃げた国民政府を支持することで長年「国家」として認めなかった中国との国交を正常化し、泥沼化して若者たちの不満・反発を集めていたベトナム戦争からの完全撤退=介入中止を決断するなど、ニクソン政権の実績には評価すべきものが多かった。それら業績の背後で働いたのが、国家安全保障問題担当大統領補佐官だったヘンリー・キッシンジャー博士で、私がアメリカに住んで後、親しくお付き合いをさせて頂くことになる。
v 共和党は好戦的で民主党は平和的、という先入観が、ともすると日本の知識人と言われる人々の意識の底に横たわっているようだが、決してそんなことはない。第一次・第二次の世界大戦で、国民の間には厭戦気分が強かったのに、あえて参戦を決めたのが民主党政権だったのを見ても、民主党が平和を尊重する政党とはとても思えない。

ニクソンがやめさせたベトナム戦争は、あのケネディ政権が介入を強め、ケネディ暗殺後のジョンソン大統領が本格化していった。一時は地上兵力だけで50万人以上を送り込み、最新鋭の兵器を惜しみなく注ぎ込んだが、北ベトナムが送り込む「ベトコン」のゲリラ戦に勝てなかった。勝てないどころか、ベトコン掃討の名の下に大量の枯葉剤をジャングルにまき散らして生態系を破壊し、村ごと焼き尽くして罪もない村民を皆殺しにするなどの不法行為も重ねた。アメリカにまだ徴兵制があった時代で、戦場に送り込まれた若者の新兵たちは、どこに敵がいるかわからない、誰が敵かもわからないゲリラ戦の恐怖に耐えられず麻薬にすがり、多くの帰還兵が重度の中毒にかかっていた。

1973年1月27日に調印されたパリ和平協定により、ニクソン大統領は同29日、戦争終結を宣言した。しかし北ベトナムは、米軍完全撤退後も戦闘をやめず、74年1月以降はソ連や中国の積極支援も受けて攻勢を強めた。翌75年4月30日にはついにサイゴン(現ホーチミン市)に侵入、南ベトナム政府の息の根を止めたのだった。この日、通信事情の悪化で現地電が入り難くなり、外務省記者クラブ員も兼ねていた私が、現地大使館から本省に送られてくる公電を元に社会面トップの記事を書いた。
……「大使公邸にロケット弾が命中」「大使館、公邸、ホテルの日本人は全員無事」――サイゴン政府の無条件降伏で、長かったベトナム戦争にピリオドが打たれた三十日、東京・霞ヶ関の外務省は現地大使館から刻々入る公電をかたずをのんで見守った。八階の電信室から六階に特設された「ベトナム対策本部」へ、そこから大臣、次官ら幹部の部屋へ、電文をワシづかみにした職員が緊張した表情で走る。百六十三人の同胞の安否に全神経を集中しながら 『ベトナム戦後』の第一夜は、あわただしくふけていった……

前書きに続く長文の本記には、こんな記述もある。
……日本時間午後三時三十分、ミン大統領の無条件降伏声明がラジオで流れると、その直後から放送の主役は解放勢力側にとって代わられた。「我々は完全にサイゴンの主人公となった。ホ・チ・ミン市――ホおじさんが待ち望んだ町は完全に民族の手に落ちた。放送局の職員は直ちに出頭せよ。電気、水道などの関係者は市民生活を維持するため、また学生、青年、生徒は、我々が定めた場所に集合し、指示する仕事を行うよう要請する」。ラジオによる布告の内容がテレックスを通じ、生々しく解放直後の現地の様子を伝えてくる……

北ベトナム軍でなく「解放勢力」、サイゴン「陥落」でなく「解放」とした表記に、当時の日本が、既に南ベトナムという国家を見捨て、北との新たな関係を模索せねばならない微妙な状況がしのばれるではないか。(つづく)


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