2020年5月22日号 Vol.374

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
[Detail, 10] バックナンバーはこちら

日本赤軍による騒乱


「日本赤軍」メンバーの国際指名手配ポスター


1960年代から70年代にかけては、過激派とされた日本の学生がさまざまな騒乱事件を起こした時代でもあった。

新左翼と呼ばれた集団がいくつも生まれ、共産党や社会党などの既成左翼とは明確な一線を画し、マルクス主義を標榜しながら反帝国主義・反共産党・反スターリニズムを掲げるアナーキズム的思考から急進的革命・暴力革命を行動原理に挙げた。学園封鎖や街頭政治行動で警察機動隊と激しく衝突しただけでなく、集団同士が敵視し合い争乱事件を起こすことも少なくなかったし、同じ集団の中で訓練中に仲間を虐殺するといった事件も起こした。

そうした中で、国際舞台に出て事件を起こす集団が現れる。先に私自身が取材に関わったことで紹介した日航機よど号ハイジャック事件(70年)は「共産主義者同盟赤軍派」を名乗るグループが「国内の非合法暴力闘争を強化するには国外に後方基地が必要」として起こしたものだった。過激派の海外進出である。事件後、この集団は国内にいた幹部ら多数が逮捕され組織的に壊滅状態になったが、生き残りの一部、重信房子らがパレスチナに向かい、イスラエルと抗争していたPFLPパレスチナ解放人民戦線 の義勇兵となり、私が国連環境会議の取材でスウェーデンにいた72年5月にイスラエル・テルアビブ空港乱射事件(26人殺害、73人負傷=重信は不参加)を起こし、74年にはシリア・ベカー高原を根拠地に「日本赤軍」を名乗るようになった。

このグループは、73年10月にパリ発アムステルダム経由東京行きの日本航空ボーイング747型機をハイジャックし、中東地域を転々としながらリビアのベンガジ空港まで飛行させ、乗客・乗員141人を解放した後、持っていた爆弾で機体を爆破した。
さらに74年1月から2月にかけてはシンガポールのロイヤルダッチシェル製油所襲撃と並行してクウェートの日本大使館を占拠、日本政府に日航特別機を手配させて南イエメンのアデンに移送させるなどの事件を起こしていたが、同年7月に日本赤軍の一人がパリ・オルリー空港で偽造ドル紙幣所持と偽造旅券行使の現行犯で逮捕されると、その身柄奪還のため9月13日にオランダ・ハーグのフランス大使館を襲って大使以下11人を監禁。フランスで逮捕された仲間の釈放と現金百万ドル、脱出用の飛行機を要求、人質救出に出動したオランダの治安部隊とは銃撃戦を演じた。

一方、事件から2日後のパリでは、PFLPに参加していたベネズエラ出身のテロリスト、カルロス・ジャッカルが、2人死亡・34人重軽傷という爆弾テロを起こして側面支援。結局、蘭仏両国政府が折れ、オランダ政府は30万ドルを支払い、フランス政府は先にオルリー空港で逮捕した赤軍派の身柄を釈放し、逃亡用のエアフランス機も準備することで落着した。

この交渉継続中に、私はオランダへの出張を指示され、急遽アムステルダムに向かったが、到着した時には勝ち誇った赤軍のコマンドたちが飛び立った後だった。犯人らはまず南イエメンのアデンに向かったが入国を拒否され、シリアのダマスカス空港で投降、戦利品の30万ドルはじめ全ての所持品を没収される形で入国を認められた(没収された金品は、後に犯人たちに返却されたとみられる)。

交渉の顛末を聞き出そうとオランダ当局に掛け合ってみたが、相手はオランダ語で一方的にまくしたて、最後は英語でNo Comment……「お前の国の若者が第3国に来て、とんでもない迷惑をかけている。国内の対立は国内で解決しろ」という口ぶりで取り付くシマもなく、私の出張は空振りに終わった。

日本赤軍は、この後も75年8月にクアラルンプールの米、スウェーデン大使館を占 拠(国内で服役・拘束中の過激派や刑法犯7人の身柄釈放を要求、当時の三木武夫首相は超法規的措置で赤軍への参加意思を示した5人を解放、日航特別機を手配してクアラルンプール経由リビアに輸送)、77年9月には、パリ発南回り東京行き日航機ハイジャック事件(乗客乗員ごとバングラデシュ・ダッカ空港に強制着陸、当時の福田赳夫首相 が「人命は地球より重い」の言葉とともに要求に従い、国内で拘束中だった過激派6人の身柄を解放、600万ドルを支払った)などを起こし、86年5月にもジャカルタの米大使館をロケット弾で攻撃、同年11月にフィリピン共産党の新人民軍NPAが三井物産マニラ支店長を待ち伏せ誘拐した事件では、翌年3月に解決した際、1000万ドルとされた身代金の授受に日本赤軍の関与が確認されるなど、世界を股に不法行為を重ねた。

さらに87年6月、イタリアのベネチアでG7サミットが開催され、私もニューヨークから取材に出張していた最中に、ローマの米英大使館をロケット弾で攻撃、カナダ大使館では自動車を爆破した後、「反帝国主義国際旅団」名の犯行声明を発表。イタリア公安当局の捜査でレンタカーから指紋を検出したことで日本赤軍の犯行と断定された。

しかし、冷戦が終わった90年代に入ると、イスラエルを支持する西側諸国と対立関係にあった諸国や組織からの資金協力が得られなくなったことなどで活動は先細り、ルーマニア、ペルー、ネパール、レバノン、ボリビアなどの潜伏先もしくは立ち回り先で赤軍構成員が次々逮捕され、2000年11月には最高指導者としてマークされていた重信房子も、帰国して潜伏していた大阪・高槻市で逮捕された。重信は、日本での武力革命を目的とした「人民革命党」と、その公然活動を担当する「希望の21世記」を設立していたことが判明したが、活動はしていなかった。逮捕の翌年、重信は獄中から日本赤軍の「解散宣言」を行なった。

よど号で北朝鮮に渡った9人も、赤軍派軍事委員長を名乗っていた田宮高麿ら5人が病気などで死亡、残された4人は帰国の意思は持っているが、逮捕されるのを嫌って現地に止まっていると伝えられる。

結局のところ、彼ら日本赤軍は、高度経済成長を続けていた日本にあって、支配階層に反旗を翻したことに始まり、世界革命などの言葉の魅力に釣られて海外にも進出し、中東の反イスラエル武装勢力と「連携」の名で支配下に入り、存在感確保のために数々のテロ行為を働きもしたが、所詮は「鬼っ子」「仇花」の域を出ることはなかった。

ただ、不条理を承知の上であえて言うなら、彼らには当時の世界と日本のありようを真摯に見つめる意志があり、そこから行き着いた「反体制」の論理を自らの力で実現しようとした意欲は明白であった。それを現実の行動でも示して見せた。

晩年に入って大学教員という職も得た私から見ると、今日の学生には、政治的意思の表明があまりに欠けていると思えてならない。それは、自らの立場を自らの意志と行動で示す気力がないのか、ハナから何も考えずに長いものに巻かれて流されているだけなのか……恐らく、この両方なのだろう。朝から晩まで、スマホ画面から目を離さず、屈託もなげに生きている彼ら彼女らを見ていると、この子らに、この国の将来を託せるのか、懐疑的になってしまう。(つづく)


HOME