2020年8月7日号 Vol.379

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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大赤字で開催
モントリオール五輪


聖火台に点火するステファン・プレフォンテーヌとサンドラ・ヘンダーソン。1976 Press Photo Stephane Prefontaine, Sandra Henderson light Olympic flame. Photo Courtesy: Associated Press / Public domain


昭和天皇のアメリカの旅をハワイで見送って、一月近く留守にしたロサンゼルスに戻っても、パティ・ハーストや大統領暗殺未遂事件の法廷手続きが始まるなど、気の許せない日々が続く。「ここは暇だから命の洗濯でもしておきなよ」――前任者の言葉がウソに思えた。そこへ、東京の運動部長から「モントリオールに行ってくれ」との要請。翌76年夏にオリンピック開催が決まっている都市の現状を見てリポートするのと、翌年の本番で使用する臨時支局の適地を探し、仮契約まですること。運動部長は私が東京、札幌の五輪を取材し、ミュンヘン大会でも社会部の原稿キャッチャーを務めていたことを知っていて、地理的には遥かに近いニューヨーク支局に頼むより、五輪通の私を適任と判断したのだろう。

とは言え、旅程の手配がネットで簡単にできる今とは全く違う。航空便や宿泊先も自分で探して電話で予約する。その手間は結構なものだ。師走も半ばに入る頃、まずサンフランシスコに行ってダウンのコートを調達して現地入りしたのだが、その寒いこと。街中を2ブロックも歩くと酷い寒さに腹が立ってくる。さらに、五輪会場の準備があまりにも遅れていることに愕然とした。

市の北東部にあるオリンピック・パークで、陸上競技と水泳、近代五輪を代表する二つのビッグイベントを一つに結合した主競技場――ジーン・ドラポー市長が「世界最新の全天候・多目的競技場だ」と自慢していた場所で見たのは、荒々しく掘り返された土塊と屋根の形にひん曲げたコンクリートの柱だけだった。何よりも奇異に映ったのは、この期に及んで、工事現場特有の活気がまるでないこと。目まぐるしく動き回る重機や車両、鉄とコンクリートが激しくぶつかり合う音、忙しげに立ち働く労働者の群れ……常識で想像できる光景の代わりに、雪解けでグシャグシャになった盛土の上に虚しく放置されたブルドーザー、時折物憂げに動作する数本のクレーンと一握りの労働者が散見されただけなのだ。

組織委員会を訪ねて聞いてみると、「工事は5、60%は進んでいます。来年5月までに外装を終え、6月6日には完成します」。但し設計図にあった天辺のシンボルタワーは途中でチョン切らざるを得ないとも言う。「上の方は大会が済んでから継ぎ足せば良いじゃないですか」。

度重なるストライキで工事が大幅に遅れ、東京の次、68年に大会を開いたメキシコが肩代わり開催を申し出たことは聞いていたが、これほどの惨状とは知らなかった。

「70年に開催が決まってからほぼ4年間は無為に過ぎた。工事が軌道に乗ったのは74年から。そこにインフレとストの追い打ちを受けた」――組織委で出会ったモントリオール・スター紙のジョージ・ハンソン記者が説明してくれた。

67年に万国博を開いた実績と、8割までは既存の施設が使えると説いて開催権を獲得したが、カナダの連邦政府は初めから五輪招致に熱心でなかった。イギリス系とフランス系という異種の移民で成り立つカナダは、フランス系市民には先住民としての誇りがあり、イギリス系には英連邦の一員としての帰属意識が強く、これがしばしば対立してきた。連邦政府としては、フランス語圏のモントリオールが、万国博や五輪など大がかりな国際行事を独占することに積極的になれるはずがなかった。
54年に初当選、一度落選はしたが60年に再選されて、それ以来ずっと市長を務めるドラポー氏が、フランス語圏のボスとしての意地で招致を強行したようなものだったが、競技場の建設に着手した時期がオイルショックと重なり、急激なインフレなどで労働者たちが賃上げ要求のストに突入、資材や建設費も高騰して予算を大幅に超過した。そうした状況を、自分で撮った写真付きの3回の連載記事(運動面)で、ありのままに伝えた。

大会時の臨時支局は、市中心部のビルに空きフロアを見つけて決めた。運動部長は「本番の取材も頼む。記者登録はこちらでするから」と、私の手際を称賛してくれたのだが、実際には翌年起きたロッキード事件で、私は開会式も閉会式も見ない五輪取材をする羽目となった。その経緯は後述するが、例の主競技場は、全体を覆うはずの屋根が中央をくりぬいた応急措置で本番を迎えた。

約3億2千万ドルと見積もられた大会経費は13億ドル超に達し、その後長く市財政を苦しめ、タバコ税はじめ大幅増税が21世紀入りするまで続いた。そして、この大赤字が、以後の五輪を商業化に駆り立てることになる。その先陣となったのが84年開催のロサンゼルス大会だった。北米2位の旅行会社を創業したピーター・ユベロス氏が組織委員長となり、テレビ放映権はじめ、「カネも出すがクチも出す」協賛企業から巨額の資金をかき集めて「儲かるオリンピック」に変容させた。

前回東京大会や札幌大会がアマ資格を厳しく審査し、商業主義の介入を峻拒したのとは全く様変わり、オリンピックの形が、変わってしまったのである。(つづく)


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