2020年8月21日号 Vol.380

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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目の当たりにしたグアテマラ大地震
謎に包まれたロッキード事件


グアテマラ地震で倒壊した家屋。4 February, 1976 / Public domain


田中角栄首相(左)とリチャード・ニクソン大統領。White House Photo Office / Public domain

当時、米大陸にあった読売新聞の支局はワシントン、ニューヨーク、ロサンゼルスの北米3都市だけだった。一番南にあったロサンゼルスは中南米も守備範囲に入る。そこで1976年の正月休みはメキシコに出かけることにした。

ロサンゼルスの日系旅行社が売り出していたパッケージツアーに乗って、メキシコシティの市内観光、近郊のテオティワカンの遺跡を見て、太平洋岸の保養地アカプルコに回る旅程だった。テオティワカンは人工復元の跡が明らかであまり感動しなかったし、アカプルコもリゾートとはこんなものか、と思った程度だったが、メキシコ市の夜、街に繰り出して目にし、耳にしたマリアッチは強く印象に残った。

旧市街のガリバルディ広場。原色の衣装にソンブレロをかぶった楽士たちがトランペット、ヴァイオリン、ギターに打楽器などで繰り出すメロディは派手な衣装や動作とも相まって強烈に響くのだが、哀感とも言える後味が尾を引いた。この感覚は旅の間中、耳の奥から消えなかったし、その後も「マリアッチ」という言葉に接するたびに蘇るのだった。

2月を迎えた直後、至急報を告げるティッカーの激しい音に早朝の夢を破られる。何事かと覗き込むと、中米グアテマラで大地震が起きたという。そこへ今度はテレックスが東京からのurgentを告げる。SHIKYUU, GENCHIIRI SARE TASHI――ローマ字の文面が出張を命じていた。

首都グアテマラシティに直行便を飛ばしている航空会社を突き止めて電話を入れると、「今日も飛びます」という。身支度もソコソコに空港に駆けつけ、飛び立った。4時間半ほどで現地上空に達したが、着陸許可が出ない。1時間近くも旋回してやっと着陸。降り立った市内は惨憺たる様相だった。

救援活動に乗り出していた国軍司令部を真っ先に訪ねると、震源地はグアテマラ市の北方160キロのモタグア断層で震源の深さは5キロという。そこでマグニチュード7・5という強烈な揺れが起きたから、ひとたまりもなかった。地震が起きたのが午前3時で人々が眠りの底にいた時刻だったのに加え、大半の住宅が土とワラなどで固めたアドビ建築だったために壊滅的な被害を受け、この時点で既に死者は1万人を超すと推定されていた(最終的には2万2870人)。1917年以降、この国で起きた最大の地震だった。

街中を歩き始めて間もなく、日本人に出会う。NHKと朝日新聞の記者だった。メキシコと南米の特派員でスペイン語もわかる。自然に行動を共にすることになった。当方としては、言語の不自由さを克服できる上に、この二人と一緒にいれば「特オチ」の心配がない。特オチとは、私だけが重大な事実を見落とすか、知らずに「抜かれる」ことである。問題は、被害の実相をどう発信するかだ。国際電話はもちろん不通。郵便局に行ってテレックス通信の可否を尋ねると、テレックスそのものがないという。辛抱強く電話の開通を待つしかない。と言っても、携帯電話などまだユメの時代。宿泊先のホテルか、公的機関の電話を借りるしかない。現地入りして二日目の午後だったか、警察署からかけたコレクトコールがやっと繋がった。

思いがけないことで、原稿の準備ができている訳でもなかったから、メモ帳片手の勧進帳をやるしかないと決めて「原稿お願いします」と言うと、「原稿はいいそうです。すぐにロサンゼルスに帰って下さい」――何故? と聞き返すと「アメリカ上院の委員会でロッキードという会社が日本の要人に賄賂を贈って売込みをしていたことが判ったようです」。

ロッキード(現ロッキード・マーテイン社、以下ロ社)といえば、ロサンゼルス近郊バーバンクに本社があり、当時新型ワイドボディ旅客機トライスターの売込みに躍起となっていた。大規模な疑獄事件に発展する予感が走り、地震被害から避難する人々でごった返す空港に向かった。グアテマラという国には、後にも先にも、この時しか行っていない。そこで起きた大地震被害を目の当たりにしながら、原稿を1行も送れずに終わった。



アメリカ上院の委員会とは、外交委員会に作られた多国籍企業小委員会だった。1970年に南米チリの大統領にマルクス主義者のアジェンデ氏が選ばれると、ニクソン政権は打倒に血道をあげ、73年9月11日にCIAの支援を受けたピノチェト将軍率いる軍部のクーデターで死に追いやった。その一方、民主党優位の議会では、多国籍企業の活動が外交に与える影響が大きいとの反省も生まれ、フランク・チャーチ議員(民主、アイダホ州)を委員長とする小委員会が設けられ、アジェンデ政権崩壊に関与した企業とCIAの関係を追及。74年には、資源外交と石油メジャーの癒着に関し15社を対象に公聴会を開催。75年にCIAの内外における非合法活動が明るみに出ると、情報機関の活動を監視する情報活動調査特別委員会(チャーチ委員長)を設置してCIAが5件の外国要人暗殺に関与したことを報告するなど、活発に行動した。

同年、多国籍企業小委は軍用機メーカー、ノースロップ社の海外不正支払いを追及。同社が公聴会で、ロ社のやり方を真似たと証言したことから、ロッキードに矛先が向けられ、76年に入ってそれが本格化した。

当時の大型旅客機市場ではボーイングの747ジャンボ機、マクドネル・ダグラスのDC10型機にロッキードのL1011トライスターが加わって激しい販売合戦を展開していた。

2月4日、グアテマラで大地震が起きた当日、チャーチ委員会ではロ社の監査法人アーサーヤング会計事務所代表を招いた公聴会が開かれ、その午後にはロ社のホートン会長への秘密聴聞、5日にはコーチャン副会長への秘密聴聞、6日にコーチャン氏らへの公聴会という日程が組まれた。この間、委員会が初日の審議終了後、大量のロ社文書を公表したことから「騒ぎ」は始まった。文書の中に「ピーナッツ領収書」なるものが含まれ、それはロ社の日本向け代理店となっていた総合商社丸紅がロ社に渡した文書だった。「125ピーナッツ受領しました」「100ピーシズ受取りました」などと書かれた紙には丸紅役員の署名があり、ロ社の航空機売込みのための工作資金であることを強烈に示唆していたのである。

6日の公聴会では宣誓証言に臨んだコーチャン副会長らが、オランダやメキシコ、ヨルダンなど複数の国でも多額の工作資金を使っていたことを明らかにするとともに、対日工作は東京駐在代表のウイリアム・クラッター氏のほか、コーチャン氏自身も直接関わっていたことを認め、日本では代理店の丸紅の他に、右翼の大物・児玉誉士夫氏を秘密代理人にしていたこと、田中角栄前首相と親しく「政商」と言われた小佐野賢治氏も関与していたこと……などが明るみに出た。

後になって判ったことだが、騒ぎの発端となったロ社の書類の束は、実はアーサーヤングに行くはずのものがチャーチ委員会に誤配されたのだという。そんなことが起こり得るものか、この事件は最初の暴露からある種のナゾに包まれていた。(つづく)


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