2020年10月30日号 Vol.385

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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モントリオール五輪
表舞台から裏舞台まで


オープニングセレモニーの様子 Opening Ceremonies 1976 Summer Olympics Montreal QC (Photo by Winston Fraser / Alamy)StockPhoto

1976年7月、バイキング1号火星軟着陸については21日付朝刊の大仕事に続いて、同日夕刊以降にも続報を送った。一方、ロッキード事件の嘱託尋問には一応の区切りがついたので、23日にようやくオリンピックが開かれているモントリオールに向かった。17日の開会式から既に1週間、競技たけなわだった。

前年暮れに私が仮契約した臨時支局に着いて記者証など受け取った直後、何気なく目を落としたモントリオール・スター紙に面白い記事を見つけた。カナダ選手の宿泊先に身元不明の選手がいる、というミステリー仕立てのストーリー。前線デスクに「ちょっと出てくる」と言い置いて支局を飛び出し、選手村に向かった。スター紙の記事について尋ねると、「カナダ選手団がもうすぐ記者会見をする」と聞き、そのまま出席した。

24日付夕刊社会面に『五輪選手村、もぐり男で珍騒動、「ボク陸上に」と大ボラ、手引きのカナダ選手失格』と大きな見出しのついた記事になった。

【モントリオール二十三日=内田特派員】厳重警備でネコの子一匹通さないはずのオリンピック選手村。それも地元カナダ選手団の部屋に、選手でも役員でもないアメリカ人の若者が一週間ももぐり込んでいた事実が発覚……二十三日には、この変な外人を手引きしたカナダの陸上選手がいたことがわかり、カナダ・オリンピック委員会はこの陸上選手の資格を即刻停止、同日行われた百メートル予選を棄権させてエリを正す一方、異例の記者会見をしてコトのてんまつを公表した……

12年前の東京大会から知っている先輩記者が「着いた早々、特ダネかよ。すげえな」と歓迎してくれた。日本他社の取材団は競技を追うことに懸命で、地元紙の記事など読む暇もなかったのだろうが、前回ミュンヘン大会では選手村にテロリストの侵入を許してイスラエル選手団が襲われる惨事が起きていただけに、「村」の警備に手落ちがあったのは、ある意味大問題、読売だけの独自取材となった。

先の記事の続きを読むと、侵入者はオレゴン州出身のアメリカ人で25歳の体育教師。オレゴン大で今回カナダ代表に選ばれた短距離選手二人とリレーメンバーを組んでいた。オリンピックを見たい一心でモントリオールにやってきて、親友だったカナダ選手に誘われるまま、カナダチームのレセプションに出席、そのあと、他の選手のIDカードを借りて入村に成功、そのまま居続けていた、のだった。

この直後には、ミュンヘン大会陸上百、二百メートルの金メダリストで、この大会でも百メートルで銅メダルを得たソ連のワレリー・ボルゾフ選手が所在不明となり、「亡命か」と疑われる騒ぎが起きた。

【モントリオール二十五日=内田特派員】カナダ放送が伝えたところによると、ソ連の短距離ランナー……ボルゾフ選手が行方不明になった。同選手は二百メートル予選には出場しなかった。ボルゾフ選手はソ連邦ウクライナ共和国の出身。ウクライナ独立を主張するウクライナ系カナダ人、アメリカ人らが二十四日付地元紙に「ボルゾフはミュンヘン大会で二つの金メダルを獲得したが、同じころ、ウクライナの知識人は不当な弾圧を受けた」とソ連政府に対する抗議の意見広告を出し、さらに二十四日夜には、メーンスタジアム近くのソ連旗を焼き捨てるなど、ソ連選手団の周辺に不穏な動きが目立っている……

同選手は、その後、選手村で所在が確認され、4X百メートルリレーには出場、決勝でアンカーを務め銀メダル獲得に貢献したが、30日には17歳のソ連水泳選手の亡命が伝えられ、身柄引渡しを求めるソ連選手団とカナダ政府の間で対立が生じた。東西冷戦真っ只中の時代で、政治と無縁のはずのオリンピックも、さまざまな側面で国際政治の荒波を受けていた。4年後、モスクワ大会は、ソ連のアフガニスタン侵攻を非難するアメリカ政府の主導で日本を含む多くの西側諸国がボイコットする事態にもなった。

オリンピック取材に派遣された以上、むろん競技とも無縁ではない。到着翌日には、陸上競技の華、百メートル男子決勝を見るためにメーン・スタジアムに足を運ぶ。前年暮れに半分ほどしか工事が進んでいなかったのが、よくも間に合わせたものだ、と別の感慨もあった。そして、予想外の結果が生まれた。26日付社会面の記事――

【モントリオール二十四日=内田特派員】カリブ海のすみっこ、ベネズエラのすぐ北に浮かぶトリニダードトバゴ。面積五千平方キロ、人口百万人。この小さな島国から新しい オリンピックのヒーローが生まれた。ハセリー・クロフォード。二十五歳。二十四日夕行われた陸上男子百メートルの決勝。「世界一速い男」は、下馬評に上がっていたアメリカのグランスでも、ソ連のボルゾフでもなかった。斜め向かい風をはね返すようにグイグイとゴールに迫ってきたのは、一メートル九〇、八十七キロのたくましいかっ色の体だった。百分の一秒を争うミクロの勝負……Vサインをあげたこの男は、極めて神経質に見えた。言葉が出ずに手で顔を覆ったり、水をのんだりしながら、なまりの強い早口の英語で質問に答えた。「オヤジはいない。母さんと男五人、女五人の大家族。小さい頃から走るのは好きだったが、競技を始めたのは十五の頃だ」。酒の好きな男だが、それを聞かれるとしばらく口ごもった。「飲むのは好きだが、このごろはあまり飲んでいないよ。ウイスキー二杯ぐらいだ」。「結婚は」という問いには答えなかった。後で「奥さんはいるが子供はいない」と教えてくれたコーチが、こう話した。「だれが、だれと何回結婚したかなんて、だれも気にしない。島全体が家族同士みたいなものだから」。浮世離れとでも言いたいような島に帰れば、彼は英雄になるだろう。だがクロフォードは、自分の黄金の足の価値をしっかり計算しているようでもあった……四年前、アメリカのスポーツ愛好家に見出され、東ミシガン大に留学、いまデザインの仕事をしているクロフォードの足に、ロサンゼルスのフットボールチームから年俸三十四万ドル(約一億円)で勧誘がきている…… クロフォード選手は、文字通り母国の英雄となり、80年と84年のモスクワ、ロサンゼルス五輪にも出場したが、決勝に残ることはなかった。また、プロフットボールの道に進むこともなかった。

日本選手では、柔道で金メダルに輝いた上村春樹、アーチェリーで銅メダルをとった道永宏、マラソンの宇佐美彰朗選手らに密着してサイドストーリーを書いた。

それにしても、この一月間、6月下旬にはロングビーチで開かれた五輪代表選考を兼ねた全米水上選手権を取材し、「総理の犯罪」を暴いたロッキード事件の嘱託尋問に神経をすり減らし、バイキング1号の火星軟着陸をつぶさに伝え、休む間もなくモントリオールのオリンピックにやってきた。口幅ったい言い方になるが、これだけ広範囲にわたる取材と送稿を短期間に重ね、すべて勝ち戦だったと思っている。

8月1日の閉会式に向け大会が終盤に差しかかった26日夜、田中角栄逮捕の一報がもたらされた。時差の関係で日本では27日朝の逮捕が現地では前日の日付だった。

「来たか」という思いとともに、「ロサンゼルスに戻らねばならない」――オリンピック取材団にいとまを告げる間もなく飛行機を予約。翌朝、出発前のホテルの部屋に届けられたモントリオール・スター紙は全ての五輪記事をおしのけ、一面トップでこのニュースを伝えていた。(つづく)



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