2021年1月29日号 Vol.390

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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大空の死闘から33年
いま抱き合う日米の荒鷲

写真左:川戸正治郎上飛曹 Masajiro (Mike) Kawato. Photo taken summer of 1943 / 写真右:グレゴリー・"パピー"・ボイントン Major Gregory "Pappy" Boyington. United States Marine Corps during World War II (Photos : Public Domain)

1977年2月のある夜、耳寄りな話が飛び込んできた。

この当時のロサンゼルス地域は、日本企業が競い合うように現地法人の本部を置いて、米国市場開拓の橋頭堡としていた。このため戦前からの日系社会に加え、企業駐在員とその家族たちによる邦人社会も広がっていた。

駐在員たちは夜になると、ピアノバーと呼ばれたクラブに集まり、同業、異業を問わず肩寄せ合うように酒を飲み、語り合っていた。私からすれば、日本企業の動静を聞き出す絶好の場でもあり、足繁く出入りするようになった。新聞紙面に署名入りで登場するから、彼らの方から親近感を抱いてくれるのが有り難かった。店に入ってしばらくすると、あちこちの別の席から酒のグラスが飛んでくる。一人二人なら、こちらも飛ばし返すのだが、多勢に無勢で敵わない。お返しを断念することがしばしばだった。

そんな雰囲気だから、当然色々な情報も集まってくる。

冒頭に「耳寄り」と書いたのは、「内田さん、キワニス・クラブって知ってる?」と聞かれたのが発端だった。「知りません。何ですかそれ」と応じると、「ロータリーやライオンズは知ってるでしょう。あれと同じようなもので、社会奉仕活動をしている団体ですよ」。

ロータリーやライオンズが企業経営者主体なのに対し、キワニスは経済人はもとより、医師や弁護士、会計士などの専門職から大学教授、公務員、家庭の主婦に至るまでメンバーの幅が広いのが特色だという。

「そのキワニスの年次総会が近く開かれるんだが、メインゲストにかつて空中戦を戦った日米二人のパイロットが招かれているんですよ。関心があれば私のゲストとしてご招待しますが、如何ですか」。願ってもない申し出で即座に「ぜひお願いします」。

当日はカメラマンが本職でサンフランシスコの通信員をしていたM君を帯同して会場に向かった。

時差の関係で翌日2月23日付夕刊第二社会面トップに、『大空の死闘から33年 いま抱き合う日米の荒鷲』の大見出しで掲載された。むろん読売の独自材だ。

【ロサンゼルス二十二日=内田特派員】第二次大戦中ソロモン海上空で死闘を演じ、日本機に撃墜された米軍パイロットと、撃ち落とした零戦のパイロットが、二十二日、ロサンゼルス空港近くのホテルで開かれたキワニス・クラブ年次総会のゲストに招かれ、三十三年ぶりに再会した。互いに肩を抱き合い、手を取り合って、当時の戦闘の模様を語り合う二人。かつては日米所を分けた“空のエース”が固い友情で結ばれたすがすがしい姿に、約五百人の聴衆は静まり、どよめき、温かい拍手を送った……

4段通し組みの前文の後にM君が撮って電送した、笑顔の二人が肩組み合う写真が3段正方形で配された。そして本文。

……この二人の荒鷲は、旧日本海軍ラバウル航空隊に所属していた川戸正治郎・元二等海軍飛行兵曹(51)と米海兵隊のブラックシープ戦闘機部隊指揮官のグレゴリー・ボイントン元少佐(64)(階級はいずれも当時)。遭遇したのは、太平洋戦争たけなわの昭和十九年一月四日、ラバウル近くのソロモン海上空だった。早朝7時過ぎから空襲警報……
零戦部隊は残存三十機の総力をあげて迎撃に飛び立った。日本側は十機編隊がそれぞれ千五百、三千、四千五百メートルに高度をとり、当時十八歳の川戸さんは最上段で米機の来襲に備えた。
……一方、三十一歳のボイントン少佐がひきいるブラックシープ部隊は、燃料節約のため、空戦には不利な千二百メートルの低空から戦場に侵入してきた。獲物を見つけ急降下する零戦。がんじょうな装備と高速で知られたコルセア戦闘機……川戸機の二十ミリ機銃弾が糸をひくようにコルセアに吸い込まれ、翼の付け根からパッと火を噴いた。このコルセアこそ、指揮官のボイントン機だった。海面スレスレまで降下して離脱をはかるが、八方から零戦が襲いかかる。「もうこれまで」と観念したボイントン氏は風防を開いて空中にダイブ……
……二十二日午後、キワニス・クラブ総会でのスピーチでボイントン氏は「わたしもずいぶん若い連中をきたえてきたが、十八なんていう子供に教えたことはない。ところが、わたしを撃ち落としたのは、まぎれもない子供だったんだ」と、かたわらの川戸さんを抱きしめ、聴衆を笑わせた……
……ボイントン氏は、海上を漂流中に日本軍の潜水艦に収容され、捕虜となったが、それまでにビルマ、中国、南太平洋を転戦、二十八機を撃墜していた。氏の組織したブラックシープは、実に百二十七機撃墜という米軍最強の戦闘機部隊だった。その部隊の鬼指揮官として「パピー(おやじさん)」の愛称を贈られ、戦後自ら書いた戦記がベストセラーになっている。「バーバー・ブラックシープ」というテレビ映画にもなった……
……一方、川戸さんも、十九機撃墜という若きエース。この間、五回も撃墜されながら命は取り止め、最後は米軍の捕虜になった……

ゴツゴツしてあまりいい文章とは言えないが言い訳は無用。18歳の若さで戦場にいた川戸さんに聞くと、1925年9月に現在の京都府京丹後市に生まれ、太平洋戦争開戦後、大量のパイロット養成に迫られていた海軍の予科練に1942年7月、16歳で志願入隊、たった1年の速成教育で戦闘機乗りになった。ラバウルに進出したのは、この空戦から3ヵ月前の1943年10月、18歳になったばかりだった。記事には「五回も撃墜された」と書いたが、実際にはB25爆撃機に正面から挑んで衝突したり、対空砲火にあったり、態様はさまざまで、その都度、落下傘で降下着水、「負傷はしたが命は助かった」という。

最後はオーストラリア軍艦船を攻撃中に撃墜され、手近な島に泳ぎ着いてジャングルで生活中に捕虜になった。

戦後も航空自衛隊に入り、66年に一尉で退官するまでパイロット生活を続けた後、さらに日本国内航空と日本航空にも勤務。私が出会った前年には、小型のセスナ機で日本からカリフォルニア州クレッセント・シティまで35時間の太平洋単独無着陸横断飛行にも成功していた。

そうした縁で川戸さんはワシントン州に定住、ボイントン氏との再会から2年後には、同氏の著作「BAA BAA BLACKSHEEP」をもじった「BYE BYE BLACKSHEEP」という本も出した。その波乱に満ちた人生と強靭な生命力などについて、一度じっくり話を聞こうと思っていたが、日々の仕事に追われるうちに疎遠となり、2001年12月に大腸がんで亡くなっていた。76歳だった。

日米戦争をめぐっては、記憶が薄れがちになる中、「戦死日本兵が持っていた日の丸を持ち帰っているが、遺族に返したい」といった照会や要請を受けることも多かった。(つづく)



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