2021年3月12日号 Vol.393

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
[Detail, 28] バックナンバーはこちら

ロス五輪成功の立役者
価値を最大限に商品化

タイム誌(1985年1月7日号)で「マン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたユーベロス氏。Image: Time Magazine, Peter Ueberroth, Man of the Year, Jan. 7, 1985 Cover Credit: PAUL DAVIS

オリンピックも私の読売時代には切ってもきれないテーマの一つだった。64年の東京に始まり、72年冬の札幌、76年のモントリオールを自ら取材し、72年のミュンヘンは原稿の受け手として東京本社で紙面制作に当たった。

そして77年という年、アメリカに五輪の風が吹いた。

アメリカは1904年セントルイス、32年にロサンゼルスで開いて以後、夏季大会を半世紀近くも開いていなかった。76年の冬季開催が決まっていたデンバーが、環境破壊だとする地元の反対で返上する一幕もあったが、80年冬をニューヨーク州のレークプラシッドに招致するなど、国内の五輪熱が冷めていたわけではない。むしろ、テレビ中継の普及で自国開催を期待する空気は強まっていた。

そうした中、77年は84年夏季大会のアメリカ国内の招致都市を決める年で、ニューヨークとロサンゼルスの2大都市が名乗りを上げ、9月下旬にコロラドスプリングスで開いたUSOC(全米五輪委)の総会で指名を激しく争っていた。その取材をすべくコロラドへの出張許可を東京に求めたが、外報部デスクの答えは「ロサンゼルスから原稿を入れてくれ」――。やむなく、総会に出席するロサンゼルス日系社会とスポーツ界の有力者フレッド和田さんや、モントリオール大会の取材で親しくなったAP通信のスポーツ部長に現場の空気を教えてくれるよう手配をした。

9月26日付、夕刊第2社会面トップに特報記事が載る。他紙は翌日の朝刊送りで、それも雑報扱い。読売は独自材とあって、『84年五輪』の横凸版に、『ロサンゼルスで開催へ』の縦5段凸版見出しという特大の扱いだった。

【ロサンゼルス二十五日=内田特派員】來る一九八四年の夏季オリンピック開催地に、ロサンゼルスの立候補が正式に決まった。国際オリンピック委員会(IOC)は来年五月、アテネで開く総会で、八四年大会の開催地を決定するが、他に立候補を表明しているめぼしい都市が見当たらないことから、第二十三回オリンピック夏季大会はロサンゼルスに決まる公算が強い。これは同市にとっても、またアメリカにとっても、さる一九三二年(昭和七年)以来、実に五十二年ぶりとなる……

前書きに続く本文で、USOC総会の表決が、ロサンゼルス55対ニューヨーク39だったことを伝え、電話で取材した現場の空気を臨場感を交えて書き込んだ。

……指名獲得にあたって、両市は市財政を圧迫しない“安上がり”のオリンピックを主張したが、三二年大会に使われた主競技場がそっくりそのまま使用できるほか、各種競技場、ヨット競技用マリーナなど、既存の施設が格段に優れているロサンゼルスが、より“安上がり”と認められた。ニューヨークは、施設面で後れをとっているうえ、現在、同市の財政が極度に窮迫していることが多数の委員に警戒され、老朽化した都市機能の再生をオリンピック開催で実現しようともくろんだ期待はあえなく葬られた……ロサンゼルスの場合、新設が必要なのは競泳プール、自転車競技場、ボート用の静水コースの三つだけで、選手村についても民間企業が行う住宅開発に便乗する。施設費、運営費をあわせて総額一億八千三百五十万ドルという超緊縮予算を計上、入場料、テレビ放映権、記念コインやメダルなど関連事業の収益で十分まかなえるとしている……同市のトム・ブラッドリー市長は「開催のための増税は一切行わない」と繰り返し公約、カリフォルニア州のエドモンド・ブラウン知事も「市民に負担をかけない」との条件付きで支持を表明している……

USOCが開催経費を重視したのは、直前の76年モントリオール大会が10億ドルを超す大赤字を出したことで、世論が大会招致に消極的になるのを警戒したためだが、結果として、それは杞憂に終わる。その理由は後に記すが、もう一つ、当時の緊迫した東西冷戦もオリンピックに影を落としていた。

80年に開かれたモスクワ大会は、共産圏が開く最初のオリンピックだったが、79年12月に起きたソ連軍によるアフガニスタン侵攻に当時のカーター米大統領が激怒してモスクワ五輪ボイコットを主張、日本や西独、韓国が追随、エジプト、イラン、サウジアラビア、インドネシア、パキスタンなどアフガンに連帯を表すイスラム諸国と、当時ソ連と対立していた中華人民共和国も含め、50ヵ国近くが参加しなかった。参加に踏み切った西側諸国も、大半は自国旗を持ち込まず、表彰や開会式などのセレモニーでは五輪旗と五輪讃歌が使われる異例の大会となった。

ソ連は、その報復として4年後のロサンゼルス大会をボイコット、東独、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ベトナムなど13ヵ国が同調した。因みに、この間隙をついた日本は金10個を含む32のメダルを獲得した。

そしてこのロサンゼルス大会は、税金を1セントも使わなかったのに2億5千万ドルを超す黒字を叩き出し、「財政的に最も成功した大会」と言われた一方で、「オリンピックの商業化にカジを切った大会」とも言われた。

その立役者は、組織委員会の会長を務めたピーター・ユーベロスという人物だった。読売を退社した後になるが、組織委会長に就任直後の彼を訪ねて単独インタビューした。

――ロサンゼルス五輪を赤字なしで開催できる自信は?
「いまオリンピックほど商品価値の高いイベントが他にあるか。赤字など出るはずがないと確信している」

――その方策は?
「オリンピックの商品価値を最大限活用すること。まずテレビ放映権だが、一発勝負の入札制で一番高いフダを入れたところに与える(ABCが2億2千5百万ドルの高額で落札)。また、大会スポンサーは1業種1社を厳選して、その分、高い協賛金を払ってもらう。入場料と関連グッズの売上もある」

――オリンピックをやることでロサンゼルスも発展する?
「それも大きい。LAはともするとspread outしているだけの街だ。地域ごとにアクセントの効いた街にできる」

すべて、コトもなげで冷静かつ簡潔な語り口ながら、しっかりした具体性に説得力があり、私が直接対話したアメリカ人の中で特に印象に残る一人となった。

ユーベロス氏は近代オリンピックの祖と言われるクーベルタン男爵が死去した日にイリノイ州で生まれ、カリフォルニアで育った。アマチュアリズムの権化というべきクーベルタンの生まれ変わりが、商業主義の申し子と言える男だった。サンノゼ州立大を卒業後、トランス・インターナショナル航空に就職、副社長まで務めたが、3年目の63年にはFirst Travelという旅行会社を起業、世界300ヵ所に拠点を置く北米第2の旅行業に成長させた。独特のビジネス手法が注目されていた。

大会後は89年まで、メジャーリーグ野球の第6代コミッショナーとなり、テレビ放映権料や関連商品のライセンス料を大幅増額させて財政基盤の確立に貢献した。総じて言えば、今日のスポーツビジネスの隆盛は、ユーベロス氏の五輪経営に端を発したと言えるだろう。(つづく)



HOME