2021年5月14日号 Vol.397

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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「辞めたか、おめでとう」
フッと蘇る本田氏の一言一句

「我、拗ね者として生涯を閉ず」 (講談社)著:本田靖春

ついにその日がやってきた。

1978年2月7日朝、私は前夜帰国して宿泊した帝国ホテルから大手町の読売新聞本社に向かった。16年前、当時銀座にあった読売の入社式に出た時も、帝国ホテルからの出社だった。アルバイトとしていた在日アメリカ人が経営の旅行会社のトゥアーガイド最後の仕事で、前夜、アメリカ人旅行客と広島から空路羽田に戻り、客たちをチェックインさせて私もそのままホテルに部屋を取ったのだった。1962年のことだから、まだフランク・ロイド・ライトが設計した戦前からの旧館だった。あの旧館に泊まったことのある人間は、今や希少であろう。

70年に完成した当時の新本館が建て直しに入るというから今昔の感にたえないが、この時は、その新本館を出て地下鉄千代田線で一駅、同じ日比谷通りの北方にある読売の社屋に入って、編集局の外報部長席に行き、退職願いを提出した。

封を見た外報部長は驚いた表情で「や、やめるって、外報部を、ですか」と聞く。「バカ言うんじゃねえよ、辞めるってのは、会社辞めるのに決まってるだろう」。

場違いとも言える伝法な口調に、そばにいた大学生の給仕君がびっくりして固まっていた。「この度、私自身、心に深く思うことあり、退職させて頂きたくお届けいたします」

気勢におされたのか、封筒の中身を一読した後は、部長はもう何も聞かず、「手続きに1週間はかかると思います」とだけ、細い声でつぶやいた。私は身を翻して隣の社会部に行き、かつての仲間に「会社辞めてきた。お茶飲みに行こう」と社内の喫茶室に誘う。

帰国の内示が出たのは前年暮れだった。決まりがあるわけではないが、特派員の任期は3年が常識とされていた。私がロサンゼルスに赴任したのは75年9月だったから、常識より半年以上早い異動となる。そこで社内の情報通に電話するなどして探りを入れると、密告情報があったという。私が任地での社業を疎かにして自分の売名にうつつを抜かしている、というのが筋で、発信源はロサンゼルスの邦字日刊紙に草鞋を脱いでジャーナリストを騙っている人物と判った。ジャーナリストを騙るくらいだから、この人物こそ、名前を売りたいに違いないのだが、当時の邦人・日系社会への浸透という点で私とは比べようもなかった。そのやっかみが卑劣な密告を生んだらしい。

経緯を聞いた社会部の仲間たちは「そいつを締め上げればいい」と口を揃えたが、私にその気はなかった。先にロッキード事件の嘱託尋問で特ダネをボツにされた時から新聞社の内情に限界を感じ、帰国命令が出た時点で辞めようと考えていたのだから、未練はなかった。

ただ了承できなかったのは「社業を疎かにして……」という情報に動かされた外報幹部の判断だ。赴任以来の実績を縷々述べてきたように、単独支局の特派員として、私は水準をはるかに超える仕事をしてきた。そもそも前任者の出稿量に数倍する記事を送ってきたし、その範囲がとてつもなく広かった。古巣の社会部はもとより、経済、運動、科学、文化、解説の各部が一様に謝意を表してくれていた。取材手法も助手の手など借りず、すべて自分で取り仕切った。私としては「十分に仕事をした」という充実感こそあれ、「社業を疎かにした」などという反省はカケラもなかった。

「まあいい、そんな会社だったのだ」

喫茶室を出ると、最も尊敬する読売社会部の大先輩で、ちょうど7年前に会社を辞めていた本田靖春氏に電話した。

「そうか、辞めたか。おめでとう」

即座に反応した本田さんは、昼食に誘ってくださった。社会部でご一緒した頃の読売本社は銀座にあった。そこからほど近い寿司屋の付け台に座った。

読売時代の本田さんは、交通事故死の急増に対応した「交通戦争」や、売血の横行に着目した「黄色い血」など、独特のネーミングでキャンペーンを張った大記者だった。私より7年先輩で、7年前に退職ということは、社にいた期間も同じということになる。

「それで? これからどうするんだ」

異動の内示が出た後、進出企業と、その駐在員向けに『US-Japan Business News』という邦字週刊紙を出していたM氏が「私と一緒にやりませんか」と誘ってくれた。

月に1回、紙面で進出企業トップとの対談をするのと引き換えに、「ダウンタウンでの足掛かりにいつでも使って下さい」と同社の中に専用デスクを用意してくれていた。さらに、77年7月に読売が他社に先駆けてニューヨークでの現地印刷を始めると、西海岸での販売代理店業務に手を上げ、8月1日からニューヨークから空輸された新聞をロサンゼルスで配達販売する面倒な仕事も手がけてくれていた。私をロサンゼルスに引き止めるために日系商工会議所や、進出企業の貿易懇話会などに呼びかけて、私の留任を要望する文書を読売本社に送る手配もしてくれたが、そんなことで本社の人事が変わることがないのは百も承知で、読売退社後の私のタイトルまで考えてくれていた。

「副社長・編集主幹でどうですか」との提案で、私も有り難く受けることにした。本田さんに、その話を伝えると、「判った。読売に未練はなくても、アメリカにはまだ未練があるんだな。ただ、日本の仕事もした方がいい」。

ノンフィクション作家として既に不動の地位を築いていた本田さんは、翌日には講談社、文芸春秋社、新潮社を連れ歩いて、編集者に私を紹介して下さった。

「取材姿勢はしっかりしている、英語に堪能、文章はうまい、ウソは書かない、ボクが保証する」。

本田さんとは、その後私がテレビ朝日で『内田忠男モーニングショー』を始めた翌年の89年元旦に番組に出て頂いた。スタッフの出演依頼に「ボクはテレビには出ない」と断られていると聞き、私自身が「たってのお願いです」と頼み込んでやっと承諾を頂いた。番組が終わって、スタッフルームにあった一升瓶を開けて呑み、かつ話したのを思い出す。スタッフたちが遠巻きに聞き耳を立てていたのも、懐かしい思い出だ。
その後90年代に私がニューヨークに戻って数年後、「キミを取材したい」と訪ねてこられ、お茶を飲みながら数時間お話ししたのが最後になった。2000年には糖尿病の悪化で、「両足を切断された、目も見えないようだ」という情報が届き、月刊現代に『我、拗ね者として生涯を閉ず』という連載を始められた。46回目が絶筆となった。私がまだニューヨークにいた04年12月に71歳で逝去された。大腸がんも併発されていたという。痛ましいことであった。

社会部時代に、社内外で良く話した。麻雀や競馬、そして酒席もご一緒したが、座談の名手で、人をそらさぬ語り口。よく語り、よく笑い、よく唱い、よく呑んだ。そうした豪放磊落さの反面、緻密極まる取材に立脚した解りやすく筋の通った文脈、卓越した時代感覚の文明批評、独特の美学、豊富な語彙を駆使した美文名文……超一級のジャーナリストだった。「拗ね者」などでは決してなかった。現実に起きた事柄を扱った『私戦』、『誘拐』、『疵、花形敬とその時代』、『不当逮捕』、『K2に憑かれた男たち』など、枚挙に余る名作・労作を残された。

今も本田さんの一言一句が予告もなくフッと甦るーー。(つづく)


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