2021年6月11日号 Vol.399

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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東京とニューヨークつなぐ
「とんでもない」番組に出演要請

Artist concept Image. Courtesy of NASA

1980年初夏、電通ロサンゼルス駐在員の訪問を受けた。「二人だけでお話ができますか」と言うので、近くのホテルのラウンジに行く。「お忙しいと思うので単刀直入にお話しします。この場でご回答が頂ければ有り難いのですが、近日中に再度お伺いしても構いません」と前置きして「実は東京のあるテレビキー局が、この秋から週1回、新しいニュース番組を企画しています。東京とニューヨークのスタジオを通信衛星で一時間つなぎっぱなしにして、世界のニュースを伝えようという、とんでもないものなんです」

当時すでにテレビの衛星中継は珍しくなくなっていたが、テレビ局が支払う通信料金が非常に高額だったので、数分刻みでしか使わないのが業界の常識だった。その常識を破ることが「とんでもない」という表現になった。

「この番組にはウチ(電通)も少なからずお手伝いをするのですが、局としては、ニューヨークに開くスタジオのキャスターを内田さんにお願いしたいと言っているのです」

番組の時刻は毎週金曜日の午後11時、1回の出演料がコレコレ、東京のスタジオを仕切るのも局アナではなくテレビ以外の世界から連れてくる、局としては、ある意味で社運をかけている……話の様子から、私を候補に推薦したのは電通で、私がロサンゼルスで出演している番組のテープを局側に見せており「当意即妙、縦横無尽の解説が好評でした」とも。

「どこの局かは、いま私の口から申し上げるわけには行かない」と言うのが気にはなったが、私は即答した。

「引き受ける意志はある、ただ、編集責任を負っているビジネスニュースの仕事もあるので、ニューヨークには週1回通うことにしたい、その移動料は支払って欲しい」。

電通氏は「わかりました。ありがとうございました」と丁寧に礼を言って帰って行った。

社に帰って、M社長に電通からの話のあらましと私の回答を告げると、M氏は「もう買いが入ってしまったんですね。内田さんの才能からすれば仕方ないけれど」と寂しそうな表情になった。
「いや、私はロサンゼルスが大好きだし、ここを離れるつもりはない」と応じたが、この地を離れたくない理由は他にもあった。私としては人生で最初にして最大の買い物をしたばかりだったのだ。

東の郊外、ローズミードという町に完成したばかりのタウンハウス型団地の一角。中2階を挟んだ2階建て住居を縦に繋いだ方式で、私が買ったユニットは、広いリビングにキッチンとダイニングをベースに2寝室と2浴室、書斎と納戸が配置され、車2台分のガレージも完備。団地内には集会所や水泳プール、庭園などがあり、敷地全体が塀で囲まれているので、セキュリティもしっかりしていた。LAダウンタウンのオフィスには車で30分近くかかるが問題になる距離ではない。この新居が気に入っていた。

話の進展が気になっていたのは半月ほどで、多忙な日常にのめり込んで忘れかけていた。2、3ヵ月もたったろうか、今度は「テレビ朝日の通信員です」という女性から電話を受ける。取材現場などで会ったことがあり、局アナをコトブキ退社、ロサンゼルスでビジネスをしているご主人のもとに嫁いだので、会社から通信員を依頼されているという。ロッキード事件の嘱託尋問の最中に、「尋問の部屋には入れないし、終わった後、日本の検事さんに聞いても何も答えてくれない。それなのに内田さんたちは毎日記事を書いてらっしゃる。どうやって情報を得ているのですか?」と、誠に正直な質問を受けたことがあった。

今度は「ウチのプロデューサーが来て、内田さんにお会いしたい、とても重要な案件だと言っています」と言う。咄嗟には電通駐在員が持ってきた話と一致しなかったが、「わかりました」と答えて、翌日、ロサンゼルス西寄りのCentury Cityにあるホテルに出かけた。

その頃には、「多分あの話だろう」という見当は付いていたが、改めて出会いの挨拶から本筋の話に入ったところで、「テレビ朝日っておっしゃいましたが、私、元は読売ですよ。いいんですか?」と聞いてみる。

「もちろん存じ上げています。よろしいじゃないですか」と気にも止めぬ風情。懐の深い会社だな、と一瞬思った。

テレビ朝日は1959年にNET=日本教育テレビとして放送を始めた会社が、テレビ界再編の波の中で77年に全国朝日放送、通称テレビ朝日に改称した。私に会いにきてくれたプロデューサーO氏はNETに入社して長く働いてきた経歴もあって、「朝日」に対する忠誠心も希薄だったのだろう。

そのO氏が、「ひとつだけお願いがあります。毎週ロサンゼルスからニューヨークに通うとおっしゃられたそうですが、それは困ります。本番以外に、取材もして頂かなければなりませんし……引越しの費用はこちらで負担しますから、何とかニューヨークに転居して頂けないでしょうか」。

家を買ったばかり、というのはすぐれて個人的な事情だから先方には響くはずもない。了承するしかなかった (新居は当時東銀の現法だったCalifornia First Bank=現MUFG Union Bank=小東京支店長のH氏に貸したのだが、転出時に家中を目茶目茶にされ大きな被害を被った)。
となれば、細かな打ち合わせと正式契約のために東京に行かなければならない。引越し準備もあれば、ビジネスニュースでの立場をどうする? 日常が一段と目まぐるしくなった。

まずビジネスニュースについては、営業担当の2人が働いていたニューヨーク支局を支社に格上げし、私は肩書きは変えずにニューヨーク駐在となる。本社の編集部長には、読売新聞で2年後輩の地方部採用記者で、北海道支社報道部勤務中に道知事から衆議院議員となった横路孝弘氏に請われて政務秘書となったが、秘書の職を辞して新たな仕事を探しているところを一時帰国中に会い、採用を決めた北岡和義君がすでに就任している。私も主力記事は書くが、毎週の紙面作りは彼に任せることにした。

テレ朝のO氏からは「英語ができて番組のオンエアを差配できる人が欲しい」と言われたので、先にビジネスニュースで選挙特番を制作したK君(北清純一、のちにテレ朝社員となる) をニューヨークに連れて行くこととした。

東京に行き、六本木のテレビ朝日本社を訪ねる。O氏のほか、番組制作に携わるディレクター陣に紹介され、生まれて初めて専属出演契約書なるものに署名捺印する。新番組の発案者で編成部長の要職にあった小田久栄門氏と会い、同氏の案内で、当時テレビ朝日の最高実力者と言われた三浦甲子二専務(ソ連KGBとの関係が噂されていた)にも引き合わされた。この会社にも結構ドロドロしたものがありそうだ、というのが率直な第一印象だった。

かくして、『Big News Show いま世界は』という番組へのレギュラー出演が決まった。(つづく)


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