2021年7月23日号 Vol.402

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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冷戦下のポーランドで
東西構造崩壊の予兆

1980年8月、レーニン造船所前(ポーランド、グダンスク)でのストライキ Photo courtesy : Nationaal Archief Materiaalsoort, Public domein

1981年4月、さしもの酷寒もようやく去って初夏を思わせる日和が始まった頃、ニューヨーク駐在の番組プロデューサーから「ポーランドに行って下さい」と言われた。

ポーランドといえば、その前年8月、北部バルト海に面したグダンスクの造船所でストライキが発生、翌月には自主管理の労働組合「連帯」(ポーランド語でSolidarnosc、英語ではSolidarity)が結成されていた。労働者の組織としては、政府主導の「労働組合中央評議会」があるだけで、労働者が自由に自主的な活動をするなど考えられなかった時代、造船所の電気工だったレフ・ヴァウェンサ(当時日本のメディアの多くはワレサと表記していた)が中心となって全国規模の組織にまで発展させ、反共産主義の運動に半ば公然と乗り出していた。テレビ朝日は、そのポーランドに取材団を送り、現地からの生放送を企画したのだった。

ただ、私には毎週金曜日の生放送に出演する使命がある。そこでポーランドへの出張は5月3日から6日にかけてと、10日から23日までの2度にわたることとなった。

最初の出張から帰ると、すぐに首都ワシントンに向かい、金曜日8日の本番は、ホワイトハウス北側のラファイエット広場に特設した野外スタジオに、カーター前政権で国防長官を務めたハロルド・ブラウン氏を招いて生の掛け合いをするプログラム。これを終えて、翌日夜には再びポーランドに向かうという強行日程だった。

ワシントンでの特設スタジオ(盆踊り舞台のような櫓を組んだ)といい、ポーランドからの生放送といい、この番組にかけた局側の並々ならぬ覚悟と意欲が察しられよう。しかも、15日のポーランドからの生放送は、国営放送のスタジオと首都ワルシャワの街頭を結んだ2元生中継という力の入れ方で、文字通り「ポーランドの今」を立体的に見せようという仕掛け。スタジオは私が仕切り、街頭には東京から派遣された安藤優子さんが出たが、通りがかりのポーランド人たちが日本のテレビ放送の物珍しさに強く反応して、安藤さんは冒頭から群衆にもみくちゃにされ、ついにはベソをかいてしまう一幕もあった。

私は生放送に向けワルシャワ市内の様々な場所を訪ねてリポートを収録する一方、マリノフスキー副首相との単独会見も敢行したが、国営放送のスタジオ設備を使わせてもらう以上、ポーランド政府への表立った批判を展開するわけには行かない。リポートの内容も、スタジオでのコメントも、表面的な事実を平明に話すだけで、抑制を効かせたものにせざるを得ず、最初の入国以来、私が感じていた率直な思いとはかけ離れたものになった。

それでも、私自身のジャーナリスティックな感想は記録しておく必要があると考えた。率直に言えば、東西冷戦下のこの時点で「社会主義に未来はない」という確信に近いものを得たことだった。プロデューサーの許可を得た上で、私が編集主幹の座にあった在米邦字紙ビジネスニュースに執筆することにした。
6月5日付同紙一面に『東西構造の崩壊を目撃した』という場違いとも言えるセンセーショナルな横見出しが躍り、『民主化の波、社会主義洗う、広がる連帯への支持』の縦見出しで、ポーランド取材のルポを掲載した。

……ポーランド滞在中、最も印象深かったのは、社会主義国では初めて結成された自主管理労組「連帯」への支持が極めて広範囲に及んでおり、一般民衆の間に社会主義体制への不信感が根強く広がっていることだった。東欧では、五六年のハンガリー、六八年のチェコと、二度にわたって、民衆の自由化への動きが、ソ連の軍事力によって圧殺された歴史がある。その轍を踏まぬためには、エスカレートを重ねる民衆の要求をどこで食い止めるか、政府と統一労働者党(共産党)の指導力が問われている。第二次大戦後に構築された東西両陣営の構造が、三十五年を経て、いまその内部から崩壊しようとしているーーその予兆をポーランドで目撃した感が深かった……

現実には、東欧の社会主義統治が崩壊したのは89年のことで、それまでに8年の歳月を要することになるのだが、ポーランドとの出会いの時点でこのような観察ができたことは、我ながら慧眼であったと思っている。その背景には、宗主国であるソ連に衰退の兆しが顕著になりつつある状況があった。

社会主義の危機を具体的に感じたのは、入国早々の現地通貨との交換に始まっていた。

当時のポーランド政府は、入国する外国人旅行者に、滞在日数に15ドルを掛けた分の米ドルを現地通貨に替えることを義務付けていた。私の最初の入国からの滞在は4日間だから60ドルで良いのだが、100ドル紙幣を差し出した。窓口の女性は「これを全部替えるのか」と怪訝そうに聞き返し、「もちろん」と答えると、少し嬉しげな表情になって現地通貨を数え始めた。3200ズローチ、1ドル32ズローチが公定レートと知れた。この窓口女性の表情変化の謎はすぐに解ける。まず空港で乗ったタクシーの運転手が米ドルとの交換を要求、1ドル100ズローチだという。それは断って、タクシー代を5ドル紙幣で支払い、「つりは要らないよ」。ホテルで降りると、卑屈な顔の男たちが「チェンジ?」と寄ってくる。むろん「つり銭」の意味ではない。今度は1ドル130ズローチ、断るとさらに吊り上がった。公定レートと闇のレートで4倍超の開き、ここにポーランド経済が抱える修復不能の谷間を見た。

さらに市内での取材を重ねるうち、ごく普通の市民たちが、天真爛漫と言えるほどあけっ広げに「No Communism, No Russia」と訴えてくる。「Japan, America good」とも。体制側の厳しい情報統制にもかかわらず、西側の情報がかなり正確に伝わっていると感じた。とすれば、暗く窮屈な社会主義より、自由で開放的な西側の体制に近づくのは、もはや止めようがないと思ったのだった。

ただ、意外な側面もあった。

<ポーランド経済、事実上の倒産状態< <対外債務返済のメド立たず< <物不足さらに深刻<……出発前に読んだポーランド関係の新聞記事は絶望的な状況を告げるものばかりだったが、実際この目で見てみると、これらの報道に多少の誇張があることを知った。

ワルシャワ市内で行列はよく目にしたが、何のためかと覗いてみると、アイスクリームやチョコレートやタバコなど、嗜好品目当てのものが多かった。計画経済という統制がつきものの社会主義体制下では、物不足は恒常的と言って良い。

公営スーパーでは、食肉、タマゴ、冷凍食品などのケースが空っぽなのをよく見かけたし、一角に人だかりがしているので行ってみると、マカロニの入荷だった。「いつ何が入荷するかわからない。だから私は1日に3度もここにきて入荷の瞬間に巡り会う幸運を待つんです」と流暢な英語で話してくれる主婦がいた。ところが、公営市場とは別のバザールに行ってみると、真っ赤なトマトも、アスパラガスやレタスやキュウリ、粒揃いのジャガイモも山積みにされていた。タマゴも果物もある。値段が公営市場の倍以上するだけだ。配給制で、本来あってはならぬはずの食肉、砂糖、バターなどもバザールの商人にコネをつければ調達できるとも聞かされた。

ソ連が指導する社会主義体制になって35年余り、自由と欲望を無視した計画経済の統制に疲れた人々の間には、資本主義が確実に忍び寄り、芽吹いていたのだった。(つづく)
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