2021年8月20日号 Vol.404

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
[Detail, 39] バックナンバーはこちら

「自由を獲得するため」
英雄ヴァウェンサの覚悟

ヴァウェンサ連帯議長 Lech Wałęsa, August 1980

ポーランドへの旅はまだ終わらなかった。自主管理労組「連帯」の自由化運動に揺れる同国を取材しながら、主人公であるレフ・ヴァウェンサ議長にはまだ会えていない。

連帯は、この年、1981年4月までに国内主要17工場に配下の労組を組織し、各県ごとの支部創設に動いていた。そうした中、ワルシャワ近郊の地方都市の大会に彼が出席するとの情報で、夏に入って、私たちはポーランドを再再訪した。

公会堂のような建物で大会は開かれていた。むろん、すべての議事はポーランド語で進められていたから私たちには内容が分からないが、昼前に日程が終わり、ヴァウェンサと話ができることになった。演壇下の座席を即席の会見場にし、彼がやってきた。

マイクのテストなど始めると、ヴァウェンサは大声で何か喋っている。「何をグズグズしてる。早く始めよう」と言っているという。私が英語で質問をし、彼の側近の一人がそれをポーランド語にして伝える形で、私が第一問を切り出した。

「あなた方の自由を求める要求は、日に日に拡大しているように見えるが……」と話し始め、彼の耳元で側近が同時通訳をしているところで、彼がいきなり怒りだした。私としては、その後に「要求のゴールをどの辺に置いているのか」と聞くつもりだった。共産主義の全面廃棄か、現体制の中での改革に止めるのか、自由化をどこまで実現することを望んでいるのか、聞き出したかったのである。ところがーー
「お前はオレに説教するつもりか。説教など聞きたくない。やめだやめだ」と席を蹴って立ち去ってしまった。

呆気にとられている私に、件の側近が「1時間待って下さい」と耳打ちして、彼も行ってしまった。しかし、あの剣幕では……と半ば諦めていたところへ、意外にも、今度は満面笑みのヴァウェンサが再登場したのである。

「さあ早く日本人と話をしよう」と通訳をせきたて、「あなた方は極限までの自由を求めるのか」と問うと、今度は立て板に水で話し始めた。

「大事なのはボクが勝ったという事実だ。必要があれば、明日も明後日も勝ってみせる。蛇口から水が漏れたら袋で包む。袋が破けたら新しいのに替えればいい。ボクは、まだ予備の袋を5つか6つ持ってるよ」

やや難解な例え話だったが、私は自由化を徹頭徹尾追求する覚悟と受け取って、重ねてそれを尋ねると「当たり前だ。何のためにボクらが立ち上がったと思っている? ホンモノの自由を獲得するために決まってるじゃないか」

ソ連の介入を気にしているか、も問うてみた。

「全く気にかけていないわけではない。ロシア人が入ってくれば、ブダペストやプラハの例を見ても、ボクは命を失うだろう。でも、それを恐れていれば、こんな運動、起こしていないよ。最悪の事態を避けるために(ポーランドの)政府とはキチンと話をしている。彼らがボクの言い分を十分理解してるとは思えないがね」

社会主義の欠点を問う。

「何より自由がないこと。それに、物がない、物価が高い……キミらがワルシャワの街で見た通りさ。社会主義は平等を保証するはずだったが、権力に近いものと一般市民の間にはとてつもない格差ができている。これじゃ、人々が向上への希望を持てない、夢もない、暗黒あるのみだ」

別れ際、1時間前のあの怒りは何だったかを聞くと「昼飯前で腹が減っていたんだ。腹がすくと、人は誰でも怒りっぽくなるだろう」

これには私も吹き出すしかなかった。この明るさ、天真爛漫さ、率直さこそが、この男を英雄にしたのだと思い知ったことであった。

当然のこととはいえ、連帯と共産主義政権の融和が進むはずはなかった。軍人出身のヤルゼルスキー首相(81年2月〜85年11月、89年7月まで国家評議会議長、90年12月まで大統領)はこの年12月、反体制運動弾圧のため戒厳令を導入、連帯を非合法化してヴァウェンサ議長はじめ多くの連帯関係者を身柄拘束した。市民生活は大幅に制限され、夜間外出禁止令、国境封鎖、空港閉鎖、電話回線の遮断、郵便物の内容検査などが行われた。

ヴァウェンサは翌年11月に釈放され、年末には戒厳令も解除されたが、その一方でハイパーインフレが進み、生活の窮乏感は深まる。主要食料品、日用品など生活に必須の物資が配給制となり、平均所得は40%も低下した。対外債務も倍増した。生産年齢の64万人が難民となって流出した。反政府情報の発信元を「偽造情報発信者」の名目で次々逮捕する恐怖政治が断行されたが、弾圧で市民の自由化・民主化要求を鎮めることはできなかった。

しかし、85年3月にソ連共産党書記長にミハイル・ゴルバチョフが就任、ペレストロイカ(建て直し)、グラスノスチ(情報公開)を旗印に、従来の強圧閉鎖型統治の全面改変に乗り出し、対外関係においても、西側との経済相互依存、世界経済一体化の必要性などを指向する新思考外交を呼号し、東欧の衛星諸国をソ連の統制のくびきから解放する姿勢を示した。それを受けて東欧各国には民主化を求める波が一挙に広がる。ポーランドでも、ストライキや小規模の暴動が頻発し、88年後半には政府も連帯との対話を模索するようになる。ヴァウェンサは、12月に「連帯市民委員会」を創設して、共産党に代わる統治政党の準備を始めた。

89年2月、政府と連帯との間で「円卓会議」が始まり、政府側は政治体制に大きな変更を加えない範囲で連帯側代表者を取り込もうとしたが、その戦術は成功しなかった。

4月初めまで続いた会議で、連帯を非合法化した法律の改正、大統領制の導入に加え、条件つきながら複数政党の容認に基づく自由選挙の実施などで最終合意。6月18日に行われた選挙で、連帯は下院議席の自由選挙枠35%すべてと、新設された上院議席の99%を獲得する地滑り的勝利を得て非共産党政権を樹立、冷戦終結に導く東欧革命の先駆けとなった。

当初、大統領には円卓会議の合意で、旧体制のヤルゼルスキー国家評議会議長が暫定就任したが、統治の実権は与えられず、翌90年9月の選挙でレフ・ヴァウェンサが晴れて大統領に選ばれ、名実共に新生ポーランドの指導者となった。

通信衛星とテレビ放送技術の発達で、この時期すでに、ほぼすべての出来事が映像つきのニュースとしてリアルタイムで世界中に配信され、人々は共通の体験として受け止めることが出来た。東欧各国の共産主義政府は国営放送を一元的に管理し、国民の受け取る情報を一貫してコントロールしていたが、にもかかわらず、国外で進行する一連の動きを国民に隠し通すことは出来なかった。自国以外の電波、特に西側の衛星放送(CNNやBBC……エストニアではフィンランドのテレビ放送)が視聴できたためである。

次々に入ってくる周辺諸国での変革の情報が、東欧各国での革命を進行・加速させることになった。11月9日のベルリンの壁崩壊もあって、同年末までに東欧のすべての共産主義政権がドミノ倒しのように倒れた背景には、映像の力が強く働いたと考えている。(つづく)
HOME