2021年11月26日号 Vol.411

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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アメリカ進出企業を全面サポート
日米の懸け橋、村瀬二郎氏の偉業

ホワイトハウスでジョージ・H・W・ブッシュ大統領(当時)と握手する村瀬氏(右)=1990年4月

話は少し前後するが、1985年秋、ニュースステーションが始まるのに先立って、私は、読売新聞退社以来勤めてきたビジネスニュースの副社長・編集主幹の職を辞することにした。テレビと活字の二足の草鞋を快く思わない幹部がビジネスニュース社内にいたこともある。ところが、その直後に、読売新聞東京本社の丸山巌副社長から自宅に電話がかかった。

「ニューヨークで印刷している読売新聞衛星版の販売拡張のために、現地のニュースで作る現地版を配りたいんだ。ウッチャン、引き受けてくれませんか」――こちらは丸山さんを存じ上げず、ウッチャンと気安く呼ばれるほどの関係ではなかったが、どこか愛嬌のある語り口の裏に、断れない説得力があった。「わかりました」と答える。

とは言っても、テレビ朝日で画面に顔を出して仕事する者が、公然と読売の仕事をするわけにも行かない。そこで、私のビジネスニュース退社に心細い顔をしていたニューヨーク支社駐在の吉澤信政(故人)、植田暁芳両君に読売からのオファーについて相談した。二人とも二つ返事で「やらせて下さい」――。ロサンゼルス時代に私が新卒採用して編集部員になっていた三浦良一君(現在『週刊NY生活』発行人)にも声をかけると、これも「すぐニューヨークに行きます」――即座に応じてくれた。

そうと決まれば、まず法人の設立から始めなければならない。ただし、そういう手続きにはとんと疎い。かねて懇意の村瀬二郎弁護士のもとに参ずる。「アメリカでは会社を作るのはメシを食うように簡単ですよ。社名と資本金をどうします?」

社名は活字と電波など異種の情報媒体に対応できるという意味でIntermedia New York Inc.、資本金は「いくらでもいい」とおっしゃるので、5千ドルを小生が払い込むことにした。銀行口座も開設する。

次は事務所探し――ニューヨーク・タイムズの3行広告欄を追って行くと、5番街42丁目に割安と思える貸事務所のスペースを見つけて行ってみる。ビルは古いが立地は良し、広さも手ごろ……で即契約。お膳立てができたところで、私は裏舞台に引っ込むことにし、あとは若い諸君に「頼んだぞ」(事務所は後にニューヨーク読売プレス社=後に読売アメリカ社に改名=に移転)。こうしてスタートした『The New York Yomiuri (後にThe Yomiuri Americaに改名)』は、読売新聞がアメリカでの衛星版発行を休止した2003年まで続き、毎週一回、本紙挟み込みで購読者に配られ、多くのファンを獲得した。今、この文章を掲載している『よみタイム』も、『The Yomiuri America』が休刊後に吉澤君と、ニューヨークのコミュニティ誌『OCSニュース』で編集長を務めた塩田眞実氏が共同発行人として発刊。2010年に吉澤君が急逝した後は、彼と行動を共にした村井美香さんが、ご主人のケーシー谷口さんと吉澤君の遺志を継いで事業を継続している。

ここで村瀬二郎氏について書いておきたい。

初めてお会いしたのは、まだロサンゼルスにいたころ、ニューヨークに出張してインタビューに伺った時だった。2017年にフリー・ジャーナリストの児玉博氏が『日本株式会社の顧問弁護士、村瀬二郎の二つの祖国』(文春新書)を出している。このタイトルにもあるように、アメリカに進出した日本企業は、その草創期から村瀬さんの世話になった。私がしたように法人の作り方はもちろんのこと、マーケティングやさまざまな法制、駐在員家族の生活、カネの借り方、さらには政府や議会へのロビーイングに至るまで、まさに「箸の上げ下ろし」からお世話になった会社が少なくない。こうした評判を聞いていたので、ご本人にぜひ会ってみたいと考えたからだ。

法律家だから、几帳面で威厳のある人と勝手な先入観を持っていたが、お会いしてみると、なんとも柔和で笑顔の絶えない人だった。私より11歳も年長と思えない若さもあった。ただ、芯の強さは容易に想像できた。

村瀬さんは世界恐慌1年前の1928年にニューヨークで生まれた。父親は現在の名古屋大学医学部を卒業後、日露戦争の旅順攻略戦に軍医として参加した後、ニューヨークに移住し、医学校に再入学して医師を開業していた。4歳の時、母と兄と共に帰国し、母の実家の東京・牛込に住んだが、兄が日本の学校に馴染めず、2年でニューヨークに帰る。そして、さらに2年後、8歳で今度は母と二人きりで母の親戚がいた兵庫県尼崎市塚口に住んだ。尋常小学校1年生からやり直し、14歳で旧制の芦屋中学に入る。その前の年、日本はアメリカとの戦争に突入していた。

「軍国少年でしたね。軍歌を歌い、軍事教練は真面目にやった。将来は戦艦武蔵の甲板士官になってニューヨーク港に入るんだ、なんて言ってた」

アメリカ生まれで米国籍、「いじめられるのが嫌で装っていたのでは決してない」と回想した時の表情は決然たるものだった。

その戦争で、日本は完膚なきまでの敗戦。村瀬さんは芦屋中学を卒業した47年10月、ニューヨークに「帰国」、その翌年、陸軍に召集されて1年間の兵役に就いた。軍曹で除隊後、49年にジョージタウン大学のロースクールに入学する。21歳、戦争による回り道だったが、戦争直後の村瀬家の家計は豊かではない。昼は海外宣伝を主任務とするヴォイス・オブ・アメリカVOAに勤めた。そこで生涯の伴侶となる由枝さんと出会う。

58年、弁護士の資格を得た村瀬さんは、日本大使館の顧問だったジョージ山岡氏の事務所に入る。5年後、シカゴに本拠を置く大手法律事務所ベーカー・マッケンジーに移籍、同事務所のニューヨーク事務所開設に尽力して、71年、ウエンダー・ムラセ・ホワイト法律事務所を開設した。首都ワシントンと日本、ニューヨークを股にかけた目まぐるしくも充実した10年余だった。

私がニューヨークに転居した直後、ご挨拶に伺うと、「ビジネスニュースの紙面を毎月1ページ、買わせて頂けませんか」とおっしゃる。私が広告のセールスに来た、と勘違いされているのかと一瞬疑ったが、「アンタイ・トラスト法制(独禁法にあたる)について、系統だった文章を書きたいのですよ。私は日本語の文章が下手だから、内田さんに手を入れて頂きたい」――広告ではないが、私を応援しようという好意には変わりがない。ありがたくお受けして、4年余にわたって連載して頂いた。完結前に私がビジネスニュースを去ったことで、中断することになった。村瀬さんとしては、いずれ出版しようとお考えだったに違いない。まことに申し訳ないことをしたものであった。

私が番組を与えられて日本に帰国していた間の89年春、勲二等瑞宝章の栄誉に浴された。それを祝賀するホテルオークラのパーティでは、私に司会の大任をお任せ下された。政財官界の著名人数百人が参列する盛会だった。

2度目のニューヨーク駐在となった90年代には、私と妻の永住権取得でも大変お世話になった。連邦議会議員の推薦状まで取って下さる懇篤さだった。

折に触れ、事務所をお訪ねしたり、村瀬さんから声をかけて頂いて夕食をご一緒したことも度々だったが、笑顔の絶えない会話が一瞬止んで、額にシワを寄せられる時間があった。「日本はいったい、どうしようとしてるんですかね。どこに行こうとしているのでしょう」とため息まじりに言われる。村瀬さんにとっては、日米間の懸案について、日本の政府や企業の決断の遅さ、アイデアのなさに我慢がならない風情でもあった。

2014年2月、由枝夫人が逝去、半年後の8月5日、後を追うように亡くなられた。ホテルオークラでのお別れ会には長蛇の列ができた。「戦後の終わり」を実感した。(つづく)


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