2022年1月28日号 Vol.414

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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ゴルバチョフの包容力
素晴らしい大衆政治家

2007年、訪日したゴルバチョフ氏(右)と筆者

レーガン=ゴルバチョフの米ソ首脳会談の話を続けよう。

1986年10月11日、12日の2回目は、北大西洋に浮かぶアイスランドの首都レイキャヴィクが会場になった。

アイスランドは、北海道と四国を併せたほどの面積に約35万人が住む小国で、日本とは管理された商業捕鯨存続の意志を共有する友好国。また冷戦下、1949年に創設されたNATO=北大西洋条約機構の原加盟国である。ただし、歴史上、軍隊を保有したことはなく、国土の防衛は警察と沿岸警備隊が担っている。

火山活動が活発な絶海の孤島だが、大規模な噴火があったと記録される871年には、すでに人が住んでいた。930年にはアルシングという世界最古の議会があった。クリストファー・コロンブスがカリブ海に到達するより500年も前にアメリカ大陸(現在のカナダ)に上陸したレイフ・エリクソンは、この国から出た探検家である。アメリカでは、彼がこの大陸に到達したとされる10月9日を「レイフ・エリクソン・デイ」としており、レイキャヴィクの教会には1930年にアルシング開設1000年を記念してアメリカが贈ったエリクソン像があるが、「コロンブス」の知名度には遠く及ばない。

ニューヨークからロンドンで乗り継いで現地入りした私たちは、まずこの国を知らなければいけないと、小型機をチャーターして、空から地形を観察した。島は南北約240キロ、東西400キロほどで、人が住む都市部は南西部に集中している。内陸にはいくつもの火山と火山湖がある無人の高地で、山の標高は2千メートル止まり。南部にはグトルフォスという有名な滝がある。海岸線は一部にはフィヨルド状のところが見えた。いたるところに温泉があり、中には高く湯を噴き上げる間歇泉も見えた。レイキャヴィクに近い海寄りには、世界最大の露天風呂とされる「ブルーラグーン」があったが、滞在中、温泉に浸かる暇はなかった。ただ取材を終えて帰途に着いた夜、ご褒美のように見事なオーロラが出現した。地上から見るオーロラは私には初体験だった。

さて、サミットの主要議題は核軍縮だった。ゴルバチョフ書記長は、冒頭から弾道ミサイルの全面禁止を提案したが、レーガン大統領は、83年に打ち出したSDI=戦略ミサイル防衛構想の継続を望み、また、ソ連における人権侵害や在ソ・ユダヤ人と反体制活動家に対する出国の保証、さらにはアフガニスタンへの軍事侵攻などを議題に加えるよう主張して、協議は難航した。その中で、レーガン大統領が81年から主張してきたヨーロッパにおける中距離核戦力を全廃する提案には、ソ連側が渋々ながら同意する姿勢を示したが、応ずる条件として、大陸間弾道ミサイルを含む戦略兵器の50%削減や、72年に米ソが締結したABM条約(戦略弾道ミサイル制限条約)を強化し、SDIに関する研究や実験を10年間凍結することなどを持ち出し、話し合いは先の見えない深みにはまってゆく。

両者の前提条件と主張が交錯して協議は行き詰まり、最後にレーガン大統領は、ゴルバチョフ書記長に、「SDIの実験禁止というたった一言のために、この歴史的好機を潰してしまうつもりか」と尋ねたのに対し、書記長は「これは信念の問題だ」と答えて会談が終わった。

……と、こう書いてくると、協議は「決裂」という印象が強くなるが、現地で観察していた私から見ると、両首脳の表情に「対決」の厳しさは見えず、むしろ和やかに話し合っている印象が強かった。果たせるかな、翌年12月8日にワシントンで開かれた3回目の首脳会談で、INF=中距離核戦力=を全廃する画期的な条約が調印され、翌年6月1日に発効するという大きな果実を生んだのだった。

この条約では射程が300〜3400マイルまでの地上発射型弾道ミサイルと巡航ミサイルの廃棄が定められ、期限とされた91年6月1日までに合わせて2692基のミサイル(米846、ソ1846)が破壊された。

ワシントンでのサミットでは、さらに、戦略兵器削減条約=START交渉の一段の進展がゴルバチョフ書記長から提案された。両国が攻撃用の弾道ミサイルを半減させるのが目標だったが、ここでもソ連側は、SDIの配備を、目標達成まで遅らせるよう条件をつけたために議論が進展しなかった。

翌88年5月には、今度はレーガン大統領がモスクワを初訪問してサミットが開かれた。ゴルバチョフ氏は、ここでもSTARTの合意を目論んだが、レーガン大統領が応じず、さらなる交渉の深化を申し合わせるにとどまった。このサミットで印象に残るのは、クレムリンの会談場を出た大統領が出した声明の中に、「私はもはや、ソ連がevil empire=悪の帝国であるとは考えていない」と特記したことであった。

この年の暮れ、12月7日には、ゴルバチョフ書記長が2度目の訪米をし、次期大統領に決まっていたジョージ・H・W・ブッシュ副大統領を含めた3人で、ニューヨークのガヴァナース・アイランドを訪れた。ゴルバチョフ氏はアフガニスタンからの撤兵を決断しており、翌年2月には撤退を完了した。私はニューヨークを離れて帰国した後で、取材はできなかった。

その代わり、という訳ではないのだが、遥か下って2007年6月にドイツ銀行が朝日新聞と協力して、ゴルバチョフ氏を東京に招いて開いたセミナー『ロシア・東欧のいま〜これから』で、私は司会・進行と議論のまとめ役を委嘱され、親しく会話する機会に恵まれた。英語のわかる側近を挟んで控室で向き合った時、レーガン氏との4度の首脳会談をすべて現地で取材したことを告げ、「会談を重ねるにつれて二人の親密度が増し、信頼関係が醸成されて行くのを感銘を受けながら見守っていた」と話し、通訳の言葉を聞くといきなり「スパシーバ=有難う」と私をハグしてきた。私がさらに、「会談の場で、あなたは常に率直かつ正直に考えを主張し、それをレーガン氏も多として応じたと聞いている」と続けると、またハグ……という具合で、何度も、あの分厚い胸に引き寄せられた記憶が生々しい。

「あなたがいなければ東西の冷戦は終わらなかった。ペレストロイカにグラスノスチ、そして新思考外交というあなたの政策があったからこそ、東欧の市民が圧政から解放されたと理解している」とも述べたが、これに対しては「ロシア国内では評判が悪くてね」と、残念そうな表情を見せた。「でも世界中が評価しています」と言うと、思い切り強いハグを返してきた。

レーガン大統領も離任後の90年に出した自伝『An American Life』で、「ゴルバチョフ氏とは互いに腹を割った会話を通じて盟友とも呼べる関係になり、極めて親密な感情を抱いた」としたうえで、「大掛かりで急進的な改革を断行している政権が、どうなって行くか、本人の生命が安全なのか、真剣に心配していた」と書いている。レーガン氏もまた、あの人懐こい、そして包容力を体現したような笑顔で人々を魅了した素晴らしい大衆政治家として鮮明に記憶している。

レーガンとゴルバチョフ……この二人は国際ジャーナリストとしての私の活動の中で、最も記憶に残る「千両役者」であった。(つづく)


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