2022年2月11日号 Vol.415

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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サミット取材22回
印象に残るヴェネツィアとナポリ

1987年のヴェネチア・サミットに出席した各国首脳(左から)ウィルフリード・マルテンス(欧州理事会議長)、 ジャック・ドロール(欧州委員会委員長)、中曽根康弘(日本国内閣総理大臣)、 マーガレット・サッチャー(イギリス首相)、ロナルド・レーガン(アメリカ合衆国大統領)、アミントレ・ファンファーニ(イタリア首相)、フランソワ・ミッテラン(フランス共和国大統領)、ヘルムート・コール(西ドイツ首相)、ブライアン・マルルーニー(カナダ首相)=敬称略=

日本の首脳外交についても触れておかなければならない。

日本の首相にとっての大きな外交舞台は日本のメディアが「サミット」と通称する「G7=主要国首脳会議」だ。この会議は1975年にフランスのジスカール・デスタン大統領が、第1次石油危機後の世界的な経済困難への対応策について西側の先進工業国首脳がヒザ詰めで話そうと、日・米・英・西独の4カ国に呼びかけたのが発端で、イタリアの首相も参加の意志を申し出たので6ヵ国の首脳が同年11月にランブイエ城で最初の会合を開いた。

ここで議長国持ち回りで毎年開催することが決まり、翌年の当番となったアメリカが、カナダもメンバーに加えることを提案してG7となった。その後EC=欧州共同体(後にEU=欧州連合)にも出席の資格を与えたが、G7の呼称は変わらなかった。当初は経済問題に関する非公式の対話を目指したが、仏・米・英・西独・日・伊・加の順で開かれて行くうちに、討議のテーマが政治・国際問題全般に広がり、山の頂を示す「サミット」に因んで、毎年の会議の準備にあたる各国首脳の側近たちを、ヒマラヤの山岳ガイド部族として知られる「シェルパ」と呼ぶようになった。また、当該年の国際情勢に合わせてG7以外のゲスト国を招くケースも広がった。

ただ、仕掛けが大掛かりになるにつれ、「首脳同士のヒザ詰め対話」より、議長国がシェルパと用意した議題の消化に追われるようになり、「形骸化」が指摘されるようにもなった。

97年からはロシア連邦が入ってG8になったが、ロシアのソチで開催が予定されていた2014年に、ロシアが軍事脅迫同然の形でウクライナ領クリミア半島を併合したことに他の7カ国が反発。開催権を剥奪して、EU本部のあるブリュッセルで代替開催、以後、G7に戻っている。

私は、テレビ朝日と専属契約をした翌年の81年7月、カナダの首都オタワでの会合を覗いて以後、ほぼ毎年、開催地に出かけて取材するのが恒例となった。契約が終わった04年の前年、フランスのエビアンで開かれたサミットまで、合わせて22回――86年の東京はニューヨーク駐在中で、また90年のヒューストンは東京で自分の番組を持っていた関係で行かなかった――取材頻度の最も高いジャーナリストだったと思う。

印象に残るのは、まず87年6月のヴェネツィア・サミットだった。初訪問の地であり、古来「水の都」と呼ばれてきたこの都市の景観に感動したことも大きい。

ニューヨークから空路直行したローマからチャーターした車で陸路向かったので、途中、フィレンツェなどにも立ち寄り、イタリアの空気は満喫していたのだが、ヴェネツィアは、全く別物だった。アドリア海の最深部、ラグーナ(潟)に作られた運河が縦横に走る、文字通りの水の都……広さ5平方キロほどのヴェネツィア本島に一歩足を踏み入れた時の感動を、私は忘れることがない。島内の道は曲がりくねって狭く、自動車の乗り入れはできない。歩行者専用の街なのだ。主要な輸送手段がゴンドラと呼ばれる小舟であることも風情を倍加していた。

サミットの経済討議では、プラザ合意から3年目を迎えていた通貨の調整が大きな比重を占めた。円は一本調子の上昇を続け、日本国内では「円高不況」が心配されていた。議論の結果を「経済宣言」は以下のようにまとめていた。

「我々は1年前に東京で会合して以来、多くの積極的進展を回顧することができる……この変化は、為替レートを経済の基礎的諸条件に概ね合致した範囲内のものとした。未だ名目ベースでは不均衡が大きすぎるが、数量ベースでは貿易フローの調整は進みつつある……それにもかかわらず我々のいくつかの国に残っている、大幅な対外不均衡、高い失業率、大幅な公的部門の赤字や高水準の実質金利といった問題を克服する必要がある。成長を持続しながら対外不均衡を是正する問題は為替レートの変化のみでは解決しない。黒字国は価格の安定を維持しながら内需を拡大して対外黒字を削減する政策を策定する。赤字国は着実かつ低インフレの成長を促進する政策で財政と対外の不均衡を減少させる」――

ここから読み取れるのは、日本がプラザ合意後の急激な円高に抵抗しても、会議全体としては容認し、日本や西独などの黒字国に、更なる内需と輸入の拡大を求めていた空気が支配的で、アメリカなど赤字国には強い要求を控えていることである。日本の中曽根康弘首相は、これが最後のサミットになったが、5度目の出席で各国首脳との間合いがわかっていた割合には、説得力を示す場面が少なかった。日本国内の報道陣に外国首脳との親密さや、自らの発言の影響力を誇大に強調し続けた割には、彼の発言や意向が浸透した形跡は見えなかった。

またこのサミットでは「東西関係に関する声明」と題した政治声明も採択され、ゴルバチョフ書記長という新しく若いリーダーが出現したソ連について、「我々はソ連の内外政策に強い関心を持って見守っている。我々は、それが東西諸国間の政治、経済、安全保障上の関係改善に重要な意義を持つものになることを希望する。同時に大きな相違が引き続き存在しており、ソ連の政策の全ての側面に対応するにあたっては、依然慎重な警戒を維持せねばならない」と述べ、ゴルバチョフ外交に興味津々だが、警戒は解かないという姿勢も見えていた。

次いで印象に残っているのは、これもイタリアのナポリで開かれた94年会合だ。日本では、前年に55年以来の自民党単独政権が終わり、日本新党と新生、社会など多党連立の細川護煕政権が誕生していたが、細川氏と小沢一郎氏の不和などから4月に崩壊、後継の羽田孜政権も二月で潰れ、6月30日にアッと驚く自民・社会の連立で村山富市政権が発足していた。ナポリ・サミットは7月8日に始まったから、まさにホヤホヤの状態でやってきた。一方経済面ではすでにバブル経済が破綻してゼロ成長に突っ込む一方、一ドル=100円に近づく急激な円高にもさらされていたが、世界では冷戦終結と、中国の最高権力者、鄧小平氏が「社会主義市場経済」を宣言したことから一気にグローバル化が進もうとしていた。会合にはロシア連邦のエリツィン大統領が招かれていた。

サミット終了後に発表されたコミュニケには、「我々は、世界経済において類まれな変化が生じている時に集まった。新たな形態の国際的な相互作用が我々の国民の生活に非常に大きな影響を及ぼすとともに、経済のグローバル化をもたらしている……21世紀に近づきつつある現在、我々は、50年前ブレトンウッズで設立された機関(IMF、世銀など)を再生し再活性化するとともに、世界中に新たに登場しつつある市場経済を指向する民主主義国家の統合という課題に取り組む責任を自覚している」と謳い上げていた。

初日の討議を終えた後、日本人記者団の前に現れた村山首相は、直前に開いたクリントン大統領との首脳会談について語った後、最前列にいた私の手を握らんばかりに近づいてきて、「親近感、親近感が湧いた」と興奮気味に訴えた。その後、夕食に出た私たちに、「村山さんが食中毒を起こした」と伝えられた。強行日程と初舞台の高揚感に包まれた村山さんにナポリの海産物が悪さをしたようだった。(つづく)


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