2022年4月8日号 Vol.419

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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田中、中曽根は「スケール大」
「総理の器」は橋本、小泉

田中角栄、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘、竹下登、海部俊樹、宮澤喜一、細川護煕、羽田孜、村山喜市、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三……これは私が二人きりか、限りなくそれに近い状況で対話したことのある日本の首相経験者である。

ただし、在任中にone-on-oneの対話をしたのは海部、村山、橋本、小渕、小泉の5氏で、他は就任より前か後になる。

宮澤氏などは、はるか以前、1970年の大阪万国博直前に大臣を務めていた通産省でインタビューしたのが初対面だった。万博の意義について、博引旁証、さまざまな側面から熱心に語り、解りやすかった。「物知りで頭の良い人だな」という第一印象だった。

1941年12月、日米戦争開戦とほぼ同時に東京帝大を卒業、翌年1月大蔵省に入った。戦後、蔵相秘書官で仕えた池田勇人氏の引きで53年参院選で政界入り(67年から衆院)。62年第2次池田内閣の経済企画庁長官を皮切りに、通産、大蔵などの主要閣僚や自民党総務会長などを歴任した。
英語に堪能だったことでも知られる。

私が東京のテレビ朝日で夕方のネットワークニュースのアンカーをしていた91年11月に内閣総理大臣になった。翌年1月、訪日した父ブッシュ大統領を迎え、官邸で晩餐会を開いた際、食事中に大統領が突然宮澤氏の膝の上に倒れ込む事態が起き、代表取材の映像が公開されていて大騒ぎになった。当時の日米関係は、減らない貿易赤字に業を煮やした米側が、日本経済の抜本的な構造改革を求めるなど緊迫した局面もあり、米側記者の中には、「毒を盛られたのではないか」などと半ば本気で話す者もいた。翌朝、単独で記者会見に応じた宮澤氏は、詰めかけたホワイトハウス記者団を相手に英語で状況説明をした。大統領が来日前からインフルエンザに感染していたこと、この日、皇居で当時の皇太子とテニスをしたことで体力を消耗されたのではないか、食事のメニューはコレコレで、厳選された材料を使い、健常者が健康に異常をきたすようなものは含まれていなかった……淡々と、しかし詳細に説明し、うるさ型の記者たちを納得させるに十分の内容だった。

けれども、72歳にして就任した首相としての業績には誇るべきものがなかった。就任時、バブル経済の崩壊で金融機関が巨額の不良債権を抱え、日本経済は底知れぬ谷に転落する淵にあったが、「東証閉鎖・日銀特融による不良債権処理」など口にはしたものの実行はせず、徒らに時間を空費して取り返しのつかない状況まで事態を悪化させた。98年発足の小渕内閣では大蔵大臣になり、「平成の高橋是清」などと呼ばれたが、ここでも有効な政策を実施できなかった。日本経済を「失われた10年」に貶めた元凶のようなもので、「口先だけのインテリ」という評価を体現したような存在|| 物の道理は解っていても、それを実現する人望と腕力とリーダーシップがなかった。本人にも無念の思いはあったか、生前没後を通じ、総理経験者が受ける大勲位菊花大綬章はじめ、すべての位階勲等を辞退した。

政策のスケールという点では田中、中曽根両氏が抜きん出ていた。田中氏は72年の総裁選挙直前に「日本列島改造論」を発表、7年の長期にわたった佐藤栄作首相は福田赳夫氏への禅譲を目論んでいたが、燃えたぎるエネルギーで総裁選の投票を制した。全国の交通・情報通信網をはじめとするインフラ建設で「ヒトとカネの流れを大都市から地方に逆流させる」と主張、現在の新幹線や高速道路網の整備は田中氏主導のお陰と言って良い。新潟の豪雪地帯から身を起こした田中氏は46年総選挙に初出馬した際、「三国峠をダイナマイトで吹っ飛ばせば越後に雪は降らない。その土を日本海に運べば佐渡と陸続きになる」と演説するなど、豪雪地帯、農村部の貧困解消が悲願だった。

高等小学校しか出ていない44歳の田中氏が、62年の第2次池田改造内閣で大蔵大臣になったときには、閣僚名簿を見た池田勇人首相が「アレは車夫馬丁のたぐいだ」と呟いたとされ、国中がどよめいたが、翌63年が昭和38年で「サンパチ豪雪」と言われた災害が起きた際には、それまで、雪は春になれば溶けると「災害」とは認められていなかった被害に災害救助法を初適用させるなど、随所に剛腕を発揮した。こうした政治力に縋ろうとする陳情者が、東京・目白にあった田中邸に毎朝ひきも切らず、その大半が手土産がわりに札束を置いていった。

私自身田中氏との対面は、中学高校からの友人に「一緒に行ってくれ」と頼まれて、朝の田中邸に同行した時のことだったが、その友人の込み入った頼み事に耳を傾けた後、彼が差し出した現金2百万円の入った封筒を当たり前のように引き寄せ、「まあ若いんだから、色々あるだろうが頑張れよ」の一言。名刺を出して新聞記者を名乗っていた私に向き直ると、悪びれる風もなく、「キミはいまどんなことを取材しているんだ」と聞かれ、「社会部の遊軍というのは何でも屋ですが、個人的には環境問題や消費者問題に関心が強いです」と答えると、「どっちも、これからの日本には大事な問題だ。頑張れよ」……田中氏の金権と言われた日常の一端に触れた思いが強かった。

中曽根氏は「戦後政治の総決算」を掲げて総理大臣になり、「平和ボケ」の生ぬるい国際認識と八方美人的外交政策が続いてきた経緯にあえて一石を投じ、日米同盟の強化に基づく安全保障環境の整備を強く主張したが、実績としては「民営化」が最も記憶に残る。第2次臨時行政調査会の会長に土光敏夫・元経団連会長(石川島重工業、東芝の社長歴任)を据え、その強力なリーダーシップの下で、国鉄、電電公社、専売公社の民営化を成し遂げた。

ただ、この人の言動は持ち前の自己顕示欲丸出しで、話を聞くたびに「一将功成りて万骨枯る」の成句を、この目で見る思いがして、個人的に好感が持てなかった。

総理の器だと感じたのは橋本、小泉両氏だ。どちらも政策に明るく、官僚の操縦に長けていた。ただ、やり方は正反対で、橋本氏が官僚の言うことをじっくり聞いた挙句に判断を下し、そこから先は動じないタイプだったのに対し、小泉氏は自分がやりたいことは決まっていて、官僚が反対しようが「やれ」と下知を飛ばす「オレについてこい」型だった。

二人に共通していたのは、「改革」への情熱と、総理大臣の座に固執しない潔さだった。橋本氏は行政、財政構造、経済構造、金融システム、社会保障構造、教育の「6つの改革」を提唱してバブル崩壊後に傷んだ日本の国力回復を図ったが、就任3年目の98年7月に行われた参院選で自民党の議席が大きく減ると、「すべて私の責任。それ以上言うことはない」と首相退任を表明した。小泉氏も就任当初から閣僚人事への派閥の推薦を一切受け付けず、閣僚・党人事を自分が決め、官邸主導の流れを作った上で、「構造改革なくして景気回復なし」と述べ、道路関係4公団・石油公団・住宅金融公庫・交通営団など特殊法人を民営化して「官から民へ」と、国と地方が三位一体となって推進する「中央から地方へ」を含む「聖域なき構造改革」を打ち出し、特に持論としてきた郵政民営化を「改革の本丸」に位置付けた。こうした民営化の嵐には族議員を中心とした強い反発を受けたが、一向に動ずることもなく改革を断行。就任から5年半近くになる2006年9月の自民党総裁改選を前にあっさり退任を表明して首相の座を明け渡した。唯一の失策は、後継に安倍晋三氏を指名したことだったと私は思う。(つづく)


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