2022年5月13日号 Vol.421

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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アメリカ生活13年に終止符
テレ朝で冠番組スタート

1988年10月にスタートしたテレビ朝日系「内田忠男モーニングショー」

1988年に戻ろう。ニュースステーションが放送開始から3年目を迎え、初めのうちは1桁を低迷していた視聴率も2桁が当たり前、時には20%に乗ることもあった。私たちニューヨーク・チームも対応の仕方を心得て仕事が軌道に乗ったと感じていた。

この年、ソ連ではゴルバチョフ書記長のペレストロイカが本格化する。ペレストロイカは英語で言えば reform。ソ連共産党内部での政治体制の改革を総称する言葉だが、この進捗によってソ連国内では表現・集会の自由、信教の自由、居住地移転や出国の自由、複数政党制など、市民の権利と自由が大幅に認められることになった。それが東欧諸国にも伝播してゆき、各地で自由と民主主義を求める市民たちのデモなどが目立つようになり、3月25日にはチェコスロヴァキアのブラスチラヴァ(現在はスロヴァキアの首都)で、共産党による統治に正面から反対する大規模なデモが起きた。さらに、4月には79年暮れの侵攻から泥沼状態に陥っていたアフガニスタンからソ連軍を撤退させることで合意が成立、5月15日から部隊の引揚げが始まった。

ソ連・東欧の改革が音を立てて進む中で、レーガン=ゴルバチョフの首脳会談が同月23日からモスクワで始まり、6月19日にはG7首脳会議がカナダのトロントで開催される。私は、この両方を現地に出向いて取材した。

アメリカ国内では、当時まだ不治とされたエイズについて、かなり突っ込んだ取材をした。アトランタのCDC=疾病管理予防センターには何度も出向いたし、患者が多かったニューヨーク市内で救援活動にあたっていたNGOなどにも足を運んで、絶望の色が濃かった患者の声を直に聞いたりした。
一方日本はと言えば、バブル景気がピークに差しかかろうとしていた。土地建物はもとより、株やゴルフ場の会員権などが恐ろしい勢いで値を上げている、盛場は狂乱に近い賑わい……といった話がニューヨークにも聞こえていた。

そんな日常の中で、8月下旬になってニュースステーションのプロデューサーだった早河洋(現テレビ朝日会長兼社長CEO)氏から電話がかかってきた。

「内田さん、笑っちゃうかもしれないけど、モーニングショーから来て欲しいと言ってきました」。
全く予期しない話に耳を疑う。自分が出演している番組以外、日本のテレビ番組には疎い私ではあったが、モーニングショーが、朝の情報番組で主たる訴求対象が主婦層……くらいの認識はあったから、「それは無理でしょう」という答えがスッと出た。

「ダメだというなら、その理由をどうします?」という問いかけには、「読売の特派員でLAに住むことになったのが75年のことで、その読売は辞めちゃったけれど、80年からはテレ朝さんのお世話になってニューヨークに引っ越してきた……もうアメリカ暮らしが13年ですよ。日本の日常感覚がほとんどない。そういう人間に奥様向けの番組をやれ、というのは無理でしょう」――。

ところが早河氏の答えは「それが良いんだ、って言ってるんですよ」――絶句する私に「東京に来られませんか?」と聞いてくる。

まことに偶然だが、その月末に日本航空の招待で東京に飛ぶことになっていた。そこで話ができる、と考えて、こちらの日程を伝えた。

この招待は、日航が東京―ニューヨーク線にアンカレッジに寄らない文字通りの直行便を運行してから5周年になるのを記念したもので、その恩恵に浴したのだった。例によって機内では眠れない。いろいろ考えることもあるのだが、モーニングショーをやるという切迫感は全くなかった。そのような選択肢はゼロに近かったからである。だから成田空港に着いても、いつもの気分で長い通路を歩き、入国の手続きをしたのだが、出口を一歩踏み出した途端、異様な空気を察した。

迎えがきていて、開口一番「明日、内田さんが泊まられるホテル・オークラで記者会見です」という。「エッ、何の会見?」と聞き返すと、「番組の、だと思います」。

「決まっちゃってるの? それじゃ話が違うじゃないの」と聞いても、「ボクは詳しいこと知りません」と、その日の日刊スポーツを差し出す。『内田忠男モーニングショー』の大見出しが躍っていた。不眠の頭は回転が鈍く、事態が飲み込めない。むろん納得したわけでもない。が、今更不条理を言い立てても後戻りできないところに来ていることは間違いなそうだった。

翌日の記者会見――質問する側の経験は無数にあったが、聞かれる側というのは初めてだ。これまで付き合いのなかった芸能記者たちに囲まれた記者会見で何を答えたか、記憶がない。「抱負」を問われても、「覚悟」のなかった人間に真っ当な答えがあるはずもない。会見に先立って、小田久栄門編成部長と話をしたが、その内容も定かでない。会見の冒頭、小田さんが私の経歴をいささか大袈裟に伝え、会社として新しいモーニングショーに期待が大きいと話していたのは憶えている。私自身は、海の渦潮に投げ込まれ、身体が勝手に反応している……そんな感じだった。

とにかく引っ越しの支度をせねばならない。10月初めの番組スタートまでに東京に移る。一月もないのだ。ニューヨークにいる妻に電話して顛末を伝え、心構えだけは頼んだ。おそらく東京には2、3日の滞在に過ぎなかったろう。気持ちだけ急いで、すべて上の空だった。ニューヨークに帰って、妻はじめ、日常を共にしている人々の顔を見て、ようやく少し落ち着いた。

LAに5年、NYに8年、合わせて13年という歳月に区切りをつけるのは容易ではない。暮らしの垢のように溜まった品々の整理を始める。引越しは、NY三田会のリーダーを長年務めてきた大先輩が経営し、同じゼミにいた同期生の社員もいた遠藤運輸に頼んだ。実にきめ細かな作業をしてくれた。

9月27日、成田着。当面は仮の住まいとなるホテル・オークラに直行。当時赤坂アークヒルズにあったテレビ朝日本社に翌日から出社して、私に白羽の矢を立てた伊駒政実プロデューサーに引き回され、社内外、アチコチに挨拶。その一方で、住む家も探さなければならない。

アメリカ的住居の住心地に慣れてしまったので、外国人向け物件を多く扱っている不動産業者に頼み、何軒か見せてもらい、新宿区大京町、慶應病院の裏手にあたる狭い道路に面した集合住宅の2寝室のユニットを借りることにした。面積は100平米を優に超えるが、2寝室だからといってバスルームが2つあるわけではない。それで月の家賃は66万5千円――ガス・水道・電気などの光熱費が家賃と別なのは判っていたが、お湯代を別に取られるのには驚いた。それも月に数万円だ。玄関脇の屋根もない駐車スペースが6万5千円だという。東京23区の土地代でアメリカ全土が買えると言われたバブル景気の真只中、恐ろしい値段だと思った。

番組は、私が引き継ぐまで、日本医師会の会長を長く務めた武見太郎会長のご子息で、後に参議院議員となる武見敬三氏がアンカーだった。慌ただしく帰国した私の気持ちや身を慮って、私のスタートを10月10日まで遅らせてくれた。武見さんには1週間以上、余分な仕事をさせてしまった。(つづく)

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