自分の名を冠したショーの初日に、この華やかなゲストと並んで、さすがに緊張した。彼女の他にもゲストはいたはずだが、その辺の記憶はすっかり抜け落ちている。ただ、そんな風に番組をスタートさせながらも、私には24年前のこの日の思い出に浸る余裕もあった。新聞記者として3年目の秋だった。全国紙では最低でも4、5年が当たり前の地方勤務を2年で終え、東京五輪の取材要員として、この年4月に東京本社運動部勤務となっていた。そして開会式の日、私はこの「国立」の国際記者席にいた。外国人記者の反応を記事にするためだった。全ての式次第が流れるように過ぎてゆく。敗戦前後の混乱、恐怖、不自由、飢餓……を鮮明に憶えていた私にとって、あの焼野原になった日本が19年にしてここまで復興し、この盛典を迎えていることに格別の感慨があった。私が座った席は、左にスウェーデン、右にはニュージーランドから来た記者が座っていた。ウットリするような気分で開会式が終わった途端、その両側の記者たちが、期せずして同時に手を差し延べてきた。Congratulations――ハッと気づいた私は、慌てて二人の手を握り返す―― Thank you so much.と答えながら、不覚にも私の目からは涙がこぼれ落ちていた。
そして98年9月21日、彼女の突然の死が報じられる。私は2度目のニューヨーク勤務中だった。「南カリフォルニア・オレンジ郡内の自宅で就寝中に死去」と伝えられたが、後に郡保安官事務所の検視官から「強いてんかん発作による窒息死」と発表された。38歳だった。華麗に奔放に駆け抜けた短い人生だった。(敬称略) (つづく) HOME