2022年5月27日号 Vol.422

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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冠番組初日に華麗なゲスト
五輪の覇者、ジョイナー出演

1988年のソウル五輪で金メダル3個と銀メダル1個を獲得したジョイナー ( Youtube チャンネル http://y2u.be/o2MGfxwl3WM)

『内田忠男モーニングショー』が始まった1988年の10月10日は月曜日だった。64年に開かれた東京五輪の開会式が開かれた日で、以後「体育の日」という祝日になっていた。

私が東京大会を取材していたことを聞いた伊駒政実プロデューサーは、即座に「それじゃ最初の日はスタジオじゃなく、国立競技場からやりましょう」と応じ、スタッフに使用許可の手配を指示する。しかも、私の知らないところで、とびきりのゲストを用意していた。

フローレンス・グリフィス・ジョイナー。前月ソウルで開かれたオリンピックの陸上競技女子短距離種目で金メダル3、銀メダル1を獲得、さらに番組2日前の10月8日には国立競技場で開かれた東芝スーパー陸上にも出場して、日本のファンにも華麗な走りを披露していた。

彼女は南カリフォルニア生まれ、高校から陸上競技を始めて78年に州立大ノースリッジ校に入り、アスリートの道を進もうとしたが、11人の兄弟姉妹の7番目という大家族で経済状況が思わしくなく中途で断念、銀行員となって家計を助けていたところ、才能を惜しんだコーチの力添えで80年にUCLAに転入学し競技生活も再開した。83年に卒業、84年のロサンゼルス五輪ではフローレンス・グリフィスの名で出場、200メートルで銀メダルを獲得した。しかし、当時はまだ、スポンサーに名乗りを上げる企業が少なく、再び銀行員となり、練習時間が極端に減ってしまった。ヘアスタイルやネイルにも興味を抱いて、それにも時間を割いた。

そんな彼女が陸上競技で不死鳥の如く復活したのが88年だった。その前年、ロサンゼルス五輪の三段跳びでアメリカ選手として80年ぶりに金メダルを取ったアル・ジョイナーと結婚、彼のコーチを受けて再び練習に熱が入り、88年6月にサンディエゴで開かれた競技会で100メートルに10秒89という好記録を出して一躍脚光を浴びた。7月の五輪代表選考会では、準々決勝で10秒49の世界新記録をマーク。これは当時、アメリカの、と言うより世界のトップランナーとされていたエヴリン・アシュフォードの記録を0秒27も上回った。200メートルでも全米記録を更新する21秒77で代表に決まった。

そしてソウル五輪の女子100メートル決勝、10秒54と2ヵ月前に出した自身の世界記録を更新、エヴリンに0・3秒差をつける圧勝だった。200メートルでは準決勝から世界記録を更新する21秒56、決勝では21秒34に伸ばしてこれも圧勝した。さらに4x100メートル・リレーにも出場して優勝、4x400メートルでは銀メダルを獲得した。この時に出した100、200メートルの記録はいまだに破られず、世界記録として残っている。

10月10日、国立競技場のバックスタンド、この日から始まる『内田忠男モーニングショー』のために早朝7時過ぎに現れたグリフィス・ジョイナーは均整のとれた身体を極彩色と言っていいドレスに包み、指には輝くばかりの艶やかなマニキュアをしていた。多彩な色と模様を描くマニキュアが広く一般化する前のことで、その華麗さはまことに印象的だった。

自分の名を冠したショーの初日に、この華やかなゲストと並んで、さすがに緊張した。彼女の他にもゲストはいたはずだが、その辺の記憶はすっかり抜け落ちている。ただ、そんな風に番組をスタートさせながらも、私には24年前のこの日の思い出に浸る余裕もあった。新聞記者として3年目の秋だった。全国紙では最低でも4、5年が当たり前の地方勤務を2年で終え、東京五輪の取材要員として、この年4月に東京本社運動部勤務となっていた。そして開会式の日、私はこの「国立」の国際記者席にいた。外国人記者の反応を記事にするためだった。全ての式次第が流れるように過ぎてゆく。敗戦前後の混乱、恐怖、不自由、飢餓……を鮮明に憶えていた私にとって、あの焼野原になった日本が19年にしてここまで復興し、この盛典を迎えていることに格別の感慨があった。私が座った席は、左にスウェーデン、右にはニュージーランドから来た記者が座っていた。ウットリするような気分で開会式が終わった途端、その両側の記者たちが、期せずして同時に手を差し延べてきた。Congratulations――ハッと気づいた私は、慌てて二人の手を握り返す―― Thank you so much.と答えながら、不覚にも私の目からは涙がこぼれ落ちていた。

あの日の空を、私たちは「五輪晴れ」と呼んだ。美しい青空だった。24年後のこの日も、空の色は同じだった。むろん、フィールドもトラックも無人で静まり返っている。だが私の脳裡には93の国と地域からやってきた選手団の姿(それも最近の五輪と違って秩序だって整然としていた)と、式典の感動が焼き付いていた。

そんな思い出の一端を、ジョイナーにも話した。素敵な笑顔で聞いていた。そして当たり前だが、ソウルでの偉業を褒め称える言葉を述べ、「レースに臨むときは、どんな気分でいるの?」と聞くと、即座にI enjoy running fast――

今でこそ、「競技を楽しみたい」と言うアスリートが多くなったが、当時はまだ、五輪のような大きな大会に出るアスリートたちの大半は、悲壮感とまでは言わなくとも、「力の限り……」とか、「一生懸命……」と答えることが多かった。それを彼女は、こともなげにenjoyと言った。

24年前の東京大会で男子100メートルを勝ったボブ・ヘイズの走りを見たとき、私の口をついて出た言葉は、「強いものは強い」だった。いま目の前にいるジョイナーにも、同じ言葉が出そうだった。

番組の中では、 I love pretty, I like beautiful とも言った。

彼女には多くのスポンサー企業が名乗りを挙げ、「数百万ドルを手にした」といわれた。その多くが日本企業だった。アスリート以外の分野にも活躍の幅を広げてゆく。89年にはNBAのインディアナ・ペイサーズのユニフォームをデザインし、90年代に入ると、シリーズ物のメロドラマといえるソープ・オペラにも出演した。

競技の世界では目立った活躍はなかったが、96年になって、出演したテレビのトークショーで現役復帰を宣言した。「次は400メートルでオリンピックに出る」。

アトランタ五輪の年だった。世界記録をもつ100、200に続いて400メートルでも……ということだったが、代表選考会直前に右脚に腱炎が出て出場を断念した。

そして98年9月21日、彼女の突然の死が報じられる。私は2度目のニューヨーク勤務中だった。「南カリフォルニア・オレンジ郡内の自宅で就寝中に死去」と伝えられたが、後に郡保安官事務所の検視官から「強いてんかん発作による窒息死」と発表された。38歳だった。華麗に奔放に駆け抜けた短い人生だった。(敬称略) (つづく)

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