2022年6月10日号 Vol.423

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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不合理なコメ行政に風穴
涌井徹さんの「農業維新」

「農業維新」と題した涌井徹さんのブログ https://wakui.exblog.jp

『内田忠男モーニングショー』をどのような番組にするか、戸惑いが続いた。私の起用を主導した伊駒政実プロデューサーは「視聴者は、ニューヨークと東京、内田さんの二都物語を期待していると思いますよ」という。

前にも書いたように、当時の日本はバブル景気の最盛期、狂乱の中にあった。物価が高い||。本来、モノの値段は需要と供給のバランスで決まる。需要が供給量を上回れば価格が上がり、供給量が需要を上回れば下がる……だがこの当たり前の原則が当てはまらないものが多過ぎた。政治家と官僚の不作為、彼らが何もしないために不合理な価格を押し付けている。世界のあちこちから「日本特殊論」が聞こえていた。

「日本人は我々とは違ったルールで経済生活をしているのではないか」「日本の物価高は異常だ。国際通念からかけ離れている。その基準で経済統計が作られれば、日本の数字が経済大国になるのも無理はないが、彼らの所得の実質的な価値で比較したら、先進工業国の下位に沈むだろう」

当時ニューヨークで「若き不動産王」として売り出し中だったドナルド・トランプが東京にやってきて言葉を失った。

「初めにゴルフ場の会員権の値段を聞かされた時、ゴルフ場全部を買い取る値段かと思った。東京の中心部の地価はもっと馬鹿げている。私が所有するホテルやカジノへの集客のマーケットとしての日本には興味があるが、本業の不動産開発では全く魅力を感じない。こんなところでビジネスをする奴の気が知れないよ」……

当時の経済企画庁が出していた「国民経済計算確報」によれば、88年末の日本の土地資産の総額は1842兆円だという。その年の国民総生産の5倍に当たる。日本の25倍もの面積があるアメリカの土地資産総額は444兆円だった。日本を買い占めるお金があれば、アメリカを4つ買ってまだお釣りが来る……トランプが呆れて怒るのも無理はなかった。

新聞記者時代に消費者問題や環境問題でキャンペーンを張った経験はある。ただ、あの時代は私自身が取材をし、記事の方向を決めた。テレビ番組では、私の周りに社員や制作会社から出向してきた番組スタッフが多数いる。現場に飛び出して取材するのは彼らの役割だ。もどかしいが、私は彼らに助言するしかない。

でもやってみるか――不合理に値段が高いものは無数にあった。家賃、電気代、電話料金、牛肉、コメ……。

コメについては、13年にわたったアメリカ暮らしの中で、安くて旨いカリフォルニア米の恩恵を受け続けた。幻のコメと言われた「国府田農場国宝米」に至っては、新潟産コシヒカリに引けを足らないと思えたし、もっと手軽に買える「菊米」「錦米」でも食味に不満はなかった。値段はと言えば、産地に近いロサンゼルスならコシヒカリの4分の1から6分の1、遠隔のニューヨークでも3分の1から5分の1……アメリカは「米国」だから、などというのは悪い冗談で、「豊葦原瑞穂の国」という美称は返上すべきだと思ったものだ。

在米中に産地を訪ねたことがある。そこで目にしたのは1枚の田んぼが1ヘクタール以上はあろうかというスケールだった。農家1戸当たりの経営面積が1000ヘクタールなんてのはザラ。飛行機からタネを直にまき、農薬や肥料も空から散布、水の量を調節するだけで、実りの時期が来れば巨大コンバインでいっきに収穫という粗放農法だが、日本式の反(10アール)当たり収量は500キロを越すという生産性の高さに驚かされた。

こんな米が日本に輸入されれば、日本の稲作農家はひとたまりもないから、国は輸入米に778%という途方もない関税をかけていた。コメ鎖国である。

日本には太平洋戦争開戦直後にできた食糧管理法というのがあって、コメの生産から流通、消費まで全過程に国が介入する……農家は獲れたコメをすべて政府に供出、農協がその業務に当たり、コメの売却代金から農機具、農薬、肥料代などを差し引いた分が農家の手取りになる(だから農家のフトコロは農協に握られていた)……消費者は米穀通帳を配られ、配給を待つ……戦中・戦後は一定の役割を果たしたが、50年代後半ごろからコメ余りの現象が見えてきた。70年代には政府米の収支が逆ザヤになり、減反政策という生産調整に乗り出した。コメを売る自由のない農家は「作る自由」まで奪われてしまったのだ。

となれば、これに逆らってコメ作りをする農家も出てくる。減反せずに生産されたコメは政府に買ってもらえないから、不正規流通米=ヤミ米として市場に出る。一方では、GATT(関税と貿易に関する一般協定)のウルグアイ・ラウンドが86年に始まり、コメ市場解放の要求も出ていた。

そうした中で、スタッフが見つけてきたのは、涌井徹(わくい・とおる)さんという生産者だった。コメどころの新潟・十日町に生まれ、地元の高校から県立農業教育センターを卒えたが、手持ちの農地が狭すぎる。21歳になった70年に秋田県大潟村への移住を決めた。

大潟村というのは、日本で2番目に大きい湖だった八郎潟を干拓して生まれた村である。大規模農業を本格的に行うモデル農村として、1戸当たりの水田は10ヘクタール。住宅は1ヵ所にまとめ、農場には車で移動し、耕作には大型機械を導入する先端農業を目指したが、タイミングが悪いことに、ほぼ同時に減反政策が始まった。

涌井さんは、この地に来て秋田県が開発して奨励品種とした「あきたこまち」に出会う。が、与えられた農地をすべてコメに当てると減反政策に反する。大潟村あきたこまち生産者協会を設立して自ら代表となり、「減反破り」のコメを産地直販で消費者に届け始めた。消費者から「しっかりした粒感がある」「冷めても味が落ちない」と好評が寄せられ、売り出した商店街には人々が殺到するほどの人気になった。

「違法米」の売り出しを聞きつけた食糧事務所職員がやってきて「禁制のおコメを売らないで下さい」と言っても、商店街側は「売るなと言われても、こんなにお客さんが来ているんですよ。私たちは売ります。警察でもなんでも呼んで下さい」――。

立法と行政の不作為がもたらした不合理なコメ行政に風穴を開けたのは、涌井さんたちだった。当然、私たちの番組も涌井さんに熱烈な支持を送った。

それでも、食管法が廃止されるまでには、さらに6年以上の歳月を要した。生産者から政府への売渡義務を廃止、「計画流通米」として流通面を管理する食糧法と略称される新法ができたのは95年11月のことだった。日本の政治は、斯くも反応が鈍く、対応が遅いのである。

涌井さんは、その後も「安くて旨いコメ」を供給する運動の先頭に立ち、近年はコメをペースト状に加工したコメネピュレという食品素材を新開発してコンテストで最優秀賞を獲得している。「農業維新」と名付けた涌井さんのブログには、コメ作りの傍ら県内外各地に出向いて新しい農業のあり方を考え、定着させる多忙な日常が記されている。=一部敬称略=(つづく)

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