2022年9月2日号 Vol.429

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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「報道特別番組」で伝えた
昭和の終わりと空前の大疑獄

昭和天皇・1935年(昭和10年)撮影 public domain

東京のスタジオで番組を持っていたのは、1988年10月から93年3月までの4年半だった。この間、定時番組の他に「報道特別番組」のアンカーも務めた。世の中には、むしろこの面で私の存在が知られてもいた。

民放テレビが通常編成を外して生放送の報道特別番組を組むというのは、それ以前はあまりなかったと記憶している。89年というのが、国内外で情勢が大きく動いた年でもあったことと関連しているのだろう。

その嚆矢となったのが昭和天皇の崩御、つまり60年余りも続いた「昭和」という時代を終わらせた出来事だった。

昭和天皇は、私が帰国する少し前から体調不良が伝えられ、やがて吐血と下血などの症状が、「天皇ご重体」と繰り返し報じられるようになって、マスメディアは当然「X日」に備えるようになっていたが、89年が明けた直後、いよいよ、その日がやってきた。1月7日午前6時53分、皇居吹上御所で崩御された。政府の正式発表は午前7時55分。8時に始まる『内田忠男モーニングショー』の前から、特別編成となり、わたしたち出演者は、会社が準備していた喪服をまとって、「特番」を始めた。宮内庁などからの中継を交え、スタジオには事情通の解説者を急遽呼び集めて番組を進行する。

昭和天皇は崩御の年齢が87歳と最高齢で、天皇在位も62年余の最長期にわたったから、思い出に不足はない。戦前・戦中・戦後……稀に見る激動の時代を生きた天皇で、親しみやすい表情に加え、時に見せる笑顔の優しさなどから多くの国民の敬愛を集めていた。「あ、そう」に象徴された天皇の言葉、全国行幸の際、各地で見せたさまざまな生の声と表情などが生々しく思い出され、重々しい中にも温かい言葉で「追悼」の言葉が綴られていった。

私自身は、両陛下の訪米随行取材の項で書いたように、「戦争責任」がうやむやのまま葬られたことに違和感を感じていたが、崩御の特番で口にできる話ではない。ご本人が崩御されたことで、これも永遠に胸の内に封じ込めることになった。

2月24日には、東京・新宿御苑で「大喪の礼」が行われ、この時も特番の司会を務めた。

ついでに皇室関連では、93年1月の「皇太子殿下婚約」の際にも特番を仕切った。妃殿下になる雅子さんは、外務官僚の小和田恆氏の長女。小和田氏が条約局畑で、当時は外務次官も務めていたから少なからず存じ上げ、私なりの評価もあったが、皇室の慶事に個人的な考えを述べるのは差し控えるべきと考え、言葉にはしなかった。

天皇崩御の次に報道特番の対象となったのは「リクルート事件」だった。

リクルートというのは、東京大学が生んだ最高のベンチャー起業家とも称された江副浩正氏が人材派遣などを本業として創設、業務を広範囲に拡張して急成長した会社で、84年末ごろから、未上場の不動産会社リクルートコスモスの株式を多数の政治家、官僚らに譲渡。86年10月に同社株が店頭公開されたことで、未公開株を譲られていた政治家らが巨額の売却益を懐にしていた。譲渡先には、89年当時の肩書きで言うと、中曽根康弘前首相、竹下登首相、宮澤喜一副総理・蔵相(のちに首相)、安倍晋太郎自民党幹事長、渡辺美智雄同政調会長、森喜朗同全国組織委員長(のちに首相)、小渕恵三官房長官(のちに首相)、小沢一郎官房副長官、橋本龍太郎元運輸相(のちに首相)、加藤六月元農水相ら自民党の大物政治家、実に40人が派閥を問わずキラ星の如く名を連ねたほか、真藤恒NTT会長、高石邦男前文部次官、加藤孝前労働次官ら官界にも幅広く及んでいた。

※写真はイメージ

まさに史上空前の大疑獄で、東京地検特捜部が88年11月に捜査開始を宣言。89年が明けて、その捜査が佳境に入り、2月13日、江副浩正氏をはじめNTTの元取締役2人を贈収賄容疑で逮捕したのを手始めに、21日には労働省の元課長(加藤次官の側近とされたノンキャリア官僚)、3月6日は真藤恒氏、8日には加藤前次官、28日には高石前次官らが相次いで逮捕された。

こうした捜査進展の都度、特番が組まれた。司法担当記者のリポートを挟んで、政治評論家や弁護士らを招いて話を聞いたが、もう一つ盛り上がらない。伝えられている疑獄の規模に比べて、捜査線上にのぼる顔ぶれが小粒に過ぎるのだ。とりわけ永田町への切り込みがない。特捜部は5月29日、中曽根内閣の官房長官だった藤波孝生氏と、公明党の衆議院議員だった公明党の池田克也氏の2人を受託収賄罪で在宅起訴しただけで捜査終結を宣言してしまった。他に安倍晋太郎氏の私設秘書、宮澤喜一氏と加藤六月元農水相の公設秘書と政治団体の会計責任者の4人が政治資金規正法違反で略式起訴されたが、いずれも「微罪」の扱い。

藤波氏の罪状は、公務員の採用時期を民間の就職協定の時期と合わせて欲しいとの請託を受けたという、言うならば瑣末な贈収賄で、国政の根幹に関わるとは到底言えない。日本の国政を左右する自民党の派閥領袖たちには指一本触れず、まさに、「大山鳴動してネズミ1匹」――。

この有様を見ていて、私の東京地検特捜部への信頼は根こそぎ崩れ去った。あのロッキード事件取材で直接関わりのあった堀田力検事(のち弁護士)らの気概と使命感には衷心からの敬意を抱いていただけに、「この惨状は、なんだ」と言う落胆が強かった。現に、以後の東京地検特捜部は牙を抜かれた獣同然で、世間をあっと言わせるような永田町や霞ヶ関の構造に一石を投ずる事件など一つとして手がけていない。しかも、どう見ても起訴相当と思われる事件が不起訴になるケースが多過ぎる。その理由としてよく聞かされるのが、「起訴しても公判維持ができない」と言う言い訳だが、それこそ、自らの力不足、やる気のなさを象徴しているように思えてならないのだ。

裁判の結果を見ても、藤波氏は1審無罪の後、控訴審で出た懲役3年執行猶予4年・追徴金4270万円の判決が最高裁にも支持されて確定、池田氏は懲役3年、執行猶予4年の一審判決で確定した。贈賄側の首領として起訴された江副氏も有罪にはなったが、懲役3年執行猶予5年と言う一審判決が確定し、実刑は免れた。特殊会社としてのNTT法により賄賂と認定された真藤氏は一審で懲役2年執行猶予3年という「形式犯」並みの判決で確定。文部、労働次官もそれぞれ執行猶予付き有罪判決で確定した。これだけの大疑獄で実刑判決をとった事案は一つもなかったのだ。

ただ、不甲斐ない捜査の周囲でマスメディアがさまざまな疑惑を報じ続けたことで、政界は混乱に陥り、4月25日に竹下首相が「国民の政治不信を招いた」として退陣を表明した。実際に内閣が総辞職したのは6月3日だったが、「ポスト竹下」と目されていた安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄氏らの有力者が軒並みリクルート事件に関与していたため身動きが取れず、後継を打診した伊東正義、後藤田正晴氏からは断られ、最終的に外相を務めていた宇野宗佑氏に「竹下裁定」を下した。

ところが、その宇野氏には首相就任後、女性スキャンダルが伝えられ、リクルート事件の不明朗な幕切れもあって7月の参議院議員選挙で大敗。自民党は参院で結党以来初の過半数割れとなり、宇野内閣はわずか69日間の短命に終わった。竹下氏は、早大雄弁会の後輩で親しかった海部俊樹氏で党内を根回し、8月8日の自民党総裁選挙に臨み、林義郎、石原慎太郎の対立候補を破って、同10日、海部政権が成立した。(つづく)

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