2022年9月16日号 Vol.430

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
[Detail, 62] バックナンバーはこちら

激しく動く世界
「湾岸戦争」を特番で速報

「砂漠の嵐作戦」でイラク軍の上空を飛行するUSAF(US Air Force)

報道特別番組の話を続ける。

何度も書いてきたように1989年は、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長のペレストロイカと新思考外交に触発された東欧諸国で、社会主義統治が雪崩を打って崩壊する「89年革命」が起きたばかりでなく、世界各地で民主化へのうねりが広がり、中国の学生らも大規模なデモを展開するようになった。6月4日の「天安門事件」では危機感に迫られた中国共産党が人民解放軍に発砲を命じ、1万人を越すとも言われる死者が出た。11月にはベルリンを東西に分け隔て、冷戦の象徴とされた壁が崩壊した。世界が激しく動いていた。

しかし日本国内では、前回述べた「昭和の終わり」や「リクルート事件」とそれに続く政変、その一方でバブル景気最終盤の歓楽のざわめきも頂点に達して世界情勢への関心が低かったから、国際問題について報道特番が組まれることもなかった。

1年以上経って報道特番の対象になったのは91年1月の「湾岸戦争」だった。

前年90年の8月2日、イラクのサダム・フセイン大統領が隣国クウェートに軍事侵攻、6日後には併合を宣言した。このイラク軍を追い返した戦争である。

イスラムは宗派対立の激しい宗教とされる。国内少数派のスンニ派にもかかわらずイラクを支配していたサダム・フセインは80〜88年にかけ、イスラム革命に成功したシーア派のイランと先の見えない宗派対立の戦争をしていた。この間クウェートは、イラン軍の攻撃でイラク唯一の原油積み出し港であるバスラ港が損害を受けた際にはクウェート港を開放してイラク産原油の輸出路を確保したほか、140億ドルを超す資金援助もしていた。イラクはこの負債返済のため、石油輸出国機構OPECで減産による原油価格上昇を主張したが、サウジアラビアやクウェートなどが反対して認められず、そうした焦燥感から隣の小国クウェートへの侵攻を決断したとみられた。

国際社会は直ちに反発した。とりわけ、79年のイスラム革命後に大使館を長期占拠される屈辱を呑まされたイランへの怨念から、イラン・イラク戦争でイラクの肩をもったアメリカの怒りは激しかった。

第2次大戦後の国際秩序を定めた国連憲章は、第2条4項に「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国連の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と、力による現状変更を認めないことを明確に規定している。一触即発と言われた冷戦下でも、軍事力で自国領土を拡張した例は、国が分裂して戦争になった朝鮮半島やベトナム以外では、第3次中東戦争で大幅に領土を広げたイスラエル以外にはなかったことだ。

「死のハイウェイ」として知られたクウェートシティとバスラを結ぶハイウェイ80号

国連はイラクの侵攻当日に緊急安保理を開き、イラク軍の無条件即時撤退を求める決議を採択。イラクがこれを無視すると4日後には、国連の全加盟国にイラクへの全面禁輸の実行を求める決議を採択した。さらに8月25日には、禁輸措置を実効あらしめるため海上封鎖の実施を承認する決議も採択した。大国のリーダーたちから蛇蝎の如く嫌われたサダム・フセインへの嫌悪は、こうして形になっていった。

世界中を敵に回した格好のサダム・フセインだが、めげなかった。強力な経済制裁を課されてもクウェートからの撤兵と併合の解消には頑として応じない。痺れを切らした国際社会は、11月29日に武力行使を容認する安保理決議678を採択した。クウェートを占領中のイラク軍に翌91年1月15日の撤退期限を示し、応じなければ加盟国に軍事力の行使を容認する、との内容だった。アメリカとソ連は共同提案国となり、反対したのはキューバとイエメン、天安門事件に対する国際的な非難に直面していた中国が棄権し、12理事国が賛成した。

ただ、「国連軍」を編成するほどの加盟国の結束はない。NATO加盟の米英仏伊にエジプト、シリアとペルシャ湾岸6カ国を加えた12ヵ国からなる「多国籍軍」が構成された。

91年が明けて、戦争がいつ始まるか、世界中のメディアが注目する中、1月15日のイラク軍撤退期限が過ぎる。多国籍軍の中核をなすアメリカ、イギリスはサウジアラビアに臨時の基地を作って待ち構えていた。

1月17日のモーニングショーが終わったのと同時に、プロデューサーがスタジオに駆け込んできた。
「戦争が始まった。内田さん、すぐに特番だ」

特設されたスタジオには、軍事専門家をはじめ中東に詳しい国際政治学者や、中東調査会などの研究者らが続々到着、その真ん中に座って番組を始めた。

戦闘は、サウジアラビアの基地を飛び立った航空機とトマホーク巡航ミサイルでイラク領内を直接叩く攻撃で始まり、Operation Desert Storm=砂漠の嵐作戦と名付けられた。その状況は、ほぼライブタイムでヴィデオゲームさながらに伝えられる。CNNと親密な関係にあったテレビ朝日は、そうした映像を選り取りみどりで即座に使用することができたから、台本と言える台本のない番組進行にはこの上もなく有難かったし、視聴者の関心も惹きつけることができた。

私にとっても、関心はありながら十分な知識のなかった中東問題に、専門家の話が聞ける絶好の機会となり、スタジオの会話も自然に弾んでゆく。

開戦初日に米英の戦闘機がイラク空軍ミグ戦闘機の迎撃で撃墜された例もあったが、ほぼ無抵抗に近い状態で多国籍軍の空爆が1ヵ月以上も続き、イラク南部の軍事施設は壊滅した。2月24日に空爆は停止、そこから地上部隊がクウェート領を包囲する形でイラク領内に侵攻する地上戦Operation Desert Saber=砂漠の剣作戦に移行した。

長期にわたる空爆で消耗したイラク軍には抵抗する士気も乏しく、一部で油田に火を放つケースもあったが、テレビ的には迫力ある映像となり、暗視装置のついたカメラの映像では、火炎と煙の向こうでイラク軍兵士が投降する姿なども映し出された。

多国籍軍は2月27日にクウェート市を解放、敗走するイラク軍をイラク領内に追撃していた多国籍軍は28日に戦闘終結を宣言、3月3日に停戦協定が結ばれた。

ブッシュ(父)大統領は、サダム・フセインのクビを上げるまで攻撃を続行すべきと主張した国内タカ派から後に「弱虫」と批判されたが、この戦争はクウェート解放が目的だったから、イラク全土占領などできるはずもなく、当然の判断だった。

ただ、この戦争が別の危機をもたらすことになる。イスラム原理主義のテロ組織アルカイダを率いていたオサマ・ビンラディンが、イスラム教最大の聖地メッカのあるサウジアラビアに異教徒であるアメリカ軍が基地を設営したことに怒り、以後激しい反米主義者となって数々のテロ行為を重ね、9・11の同時テロ攻撃に至ったことである。ビンラディンは、ソ連が軍事侵攻したアフガニスタンでアラブ人のイスラム義勇兵ムジャヒディンの一指導者として「聖戦」の名のゲリラ戦に従事、当時はアメリカから装備の供与を受けるなど良好な関係だったが、サウジアラビアに凱旋後の湾岸戦争で立場を一転させたのだった。(つづく)

HOME