2022年10月28日号 Vol.433

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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政界裏面史の大御所招く
「早坂コーナー」好評

早坂茂三・著『駕籠に乗る人 担ぐ人―自民党裏面史に学ぶ』(祥伝社)と『オヤジとわたし 頂点をきわめた男の物語』(集英社)

テレビ朝日で、モーニングショーと湾岸戦争を伝える報道特別番組に忙しく出演していた91年1月の終わり、情報局長に呼ばれた。モーニングショーは情報局所管の番組だった。

「内田さん、4月から夕方のニュースをやって下さい」と言う。かぶせるように「特番のさばき(運営)を見ていて、報道局から内田さんを戻してほしいと要望がきた。夕方の全国向けネットワークニュースをやってもらう、と言うんです。内田さんは、やっぱり報道が似合うんだよなァ」ーー情報局長の表情には、視聴率を取りやすい芸能ネタに関心が薄く、キャンペーン色の強い硬派ネタをやりたがる私がいない方がスッキリするーー情報局として歓迎の感情があるようにも感じられた。

「会社として決まったことですか」と問い返すと、「ええ、決まったことです」の答え。であれば是非もない。「わかりました」と答えた。

モーニングショーの部屋に戻ると、伊駒政美プロデューサーが真っ赤な顔をして待ち構えていた。黙って私の肩を押し、ひと気のないメイクアップルームのソファに座らせると、その横で顔を覆って男泣きを始めた。「会社って、こんなに勝手なものですかね」と切れ切れに言う。ニューヨークにいた私に目をつけ、反対の声も多かったであろう周囲を説得して私の起用を実現した伊駒氏が、そのことに賭けていた勝負への気概、その重さを、迂闊ながら私は軽く見ていたのかも知れない。

「内田さんに来てもらって2年経って、これから、と言う時ですよ。だからこそ、今年初めから、特番などで忙しい合間を縫って、内田さんには花王(メインのスポンサーだった)への挨拶に同行をお願いしたり、番組の芯になる企画を充実させようと色々考えていた。早坂コーナーなども売り物にしてね……その矢先ですよ」――私には、応ずる言葉がなかった。

「早坂コーナー」というのは、政治評論家の早坂茂三氏を招いて前年秋から始めた。その少し前に伊駒氏から「早坂さんに出てもらうこと、内田さんはどう思います?」と聞かれ、芸能界のスキャンダルを騒ぎ立てるコーナーにいささかうんざりしていた私としては一も二もなく賛同した。「お願いする場に同席して下さい」と言われ、紀尾井町の料亭、福田家に早坂氏を招いた。

早坂氏といえば、「今太閤」と囃された田中角栄元首相の政務秘書を23年間も務めた政界裏面史の大御所的存在で、85年2月に田中氏が脳梗塞で倒れた直後に秘書の任を解かれ、87年に『オヤジとわたし 頂点をきわめた男の物語』(集英社)、『政治家田中角栄』(中央公論社)の2冊を立て続けに出し、88年には『駕籠に乗る人 担ぐ人―自民党裏面史に学ぶ』(祥伝社)がベストセラーになっていた。

田中氏の秘書になるまで東京タイムズの政治部記者だったことは知っていたが、この時の会話で、読売新聞の入社試験の最終面接まで残っていたのが、早稲田の新聞学科(政経学部)時代に共産党に入党していた前歴でハネられたことを知った。1955年のことで、入社年次の比較では私の7年先輩にあたる。読売時代に私が尊敬してやまなかった本田靖春氏と同期で、本田氏とは新聞学科でも親しかったと聞かされた。さらに、私自身の大学受験で、正確に50人しか採らなかった早稲田の新聞学科も受かっていたが、慶應義塾(経済学部)に合格したので入学しなかったことなど、会話も弾んで早坂氏はモーニングショーへの出演を承諾してくれた。

早坂コーナーでは、過去から現在に至る政治家の素顔を歯に衣着せぬ言葉で紡ぎだす面白さがうけて、滑り出しから好調だった。

そもそも田中角栄氏にどう口説かれて秘書になったか――62年10月、池田勇人内閣の大蔵大臣で入閣した田中氏に呼ばれ、「オレは10年経ったら天下を取る。一緒にやらないか。大博打だけれども命まで取られることはない。キミに赤旗を振っていた時代があったことは知っているが、そんなことはどうでもいい。どうだ」と迫られ、その場で決断したという。田中氏は約束通り、10年後の72年7月、内閣総理大臣になった。

その田中氏は、月刊文藝春秋に載った立花隆論文を火付け役とする金権批判で、2年半足らずで首相を辞任、さらに2年半後にはロッキード事件で逮捕される。そうした間も、早坂さんは田中氏の復権を信じてひたすら寄り添った。田中氏は刑事被告人としての公判中も、選挙の都度無類の強さで再選を重ねた上、自民党のキングメーカーとして隠然たる力を発揮、82年には中曽根康弘氏を首班に押し上げ、「田中曾根内閣」の異名もとった。

この時代、田中氏の陰で見え隠れする早坂さんを週刊誌が、「傲岸不遜が三つ揃い着て闊歩している、なんて書きやがった」と回想していた。

政治家本人を早坂さんの声掛けで番組に招くことも少なくなかった。

断られ続けた竹下登氏(元首相)を、最後はどう口説いたのか、とにかく出演に漕ぎつけた。早坂さんからは「内田さん、リクルートの件だけはチャックだよ」と事前に釘を刺された。男性の上履きパンツの前についたファスナーを「チャック」と呼ぶ習慣があって、チャックは「閉めておく」、つまり「聞いてはならない」の意だった。

竹下氏は、田中派の創設メンバーで、田中内閣では最後の官房長官を務めるなど、田中氏の最側近とされてきたが、85年2月7日、勉強会と称する「創政会」を田中派内に作った。これが田中氏を激怒させ、20日後の同月27日に脳梗塞で倒れる因になった、とする説がもっぱらだった。創政会は、87年5月、「経世会」として正式に派閥となり、竹下派と呼ばれることになった。141人いた田中派のうち118人が参加、竹下氏は党内最大派閥の領袖となって、同年11月、「中曽根裁定」により総理総裁の座に登り詰める。

リクルートについては聞けなくとも、創政会結成については聞いておかなくては、と思い、その経緯を質すと、竹下氏は「派中派などと書かれましたが、あくまで勉強会を作ったわけでございまして、田中さんに弓を引く気など毛頭ございませんでした」

「私どもとしては、国を良くするために政治が何をすべきか、常に研鑽を積んでおかなくてはいけません。そこには限度などないわけでございます。ですから創政会も政策の勉強をトコトンする、勉強するには普段から近場にいる政治家たちが緊密に話し合いながらやって行く、そういう気持ちで組織したわけでございます」

丁寧な言い回しで言葉の数は多いが、本心は何も語らない。初対面に近い私ごときが、いかに策をめぐらせても、限られた時間の中で崩せるものではなかった。「あしらわれたな」――時間が来て竹下氏をスタジオから送り出した後には、無力感と悔恨だけが残った。「ウッチャン、よくやったよ」と言う早坂さんの労いにも、応える気力が失せていた。

91年3月末、『内田忠男モーニングショー』は2年半で終わった。

伊駒氏の大きな期待に応えることもなく、社命と聞いて報道への転籍をあっさり承諾してしまった私自身の分別の甘さに今更ながら忸怩たる思いが広がる。(つづく)

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