2023年01月27日号 Vol.438

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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「失われた30年」の出発点
際立つ対応の遅さと稚拙さ

バブル景気の終焉は、1973年以来、オイルショックや世界同時株安などさまざまな危機や障害を乗り越えて20年近くも続いた日本経済の安定成長期に終止符を打ち、「日本病」とも言われる「失われた30年」の出発点となった。

崩壊から30年余が経った現在、かつて世界中で「金持ち」と言われた日本の姿はどこにもない。実質賃金はG7諸国の最低に沈んだばかりか、韓国にさえ抜かれて久しい。内閣府が発表した直近の数字では、世帯年収が平均値の半分以下という貧困家庭の子どもが8人弱に1人、13%を占める。少子化だけが問題ではないのだ。2019年の厚労省の調査では「生活が苦しい」という人が54・4%に上った。所得だけではむろんない。経済成長率をはじめ物価上昇率、長期金利など全ての指標で右肩下がりを続け、1990年前後のバブル末期の数字を下回っている。低所得・低成長・低物価・低金利の「4低時代」=「安い日本」と言われる所以である。

バブル期に約7割の占有率で、日米半導体摩擦が起きたほど世界市場を圧倒していた日本製半導体の市場シェアは、20年にはアメリカ55%、韓国30%、台湾18%から大きく引き離されて6%まで沈んだ。スイスの国際経営研究所が発表しているディジタル競争力の世界ランキングは、22年に29位だ。東アジアだけを見ても、シンガポール4位、韓国8位、台湾11位、中国17位のはるか後塵を拝している。

バブル景気の始まりから崩壊後の経過を通じて、官邸・大蔵省(現財務省)・日銀など日本の政策当局の対応の遅さと拙劣さが際立つ。企業を含めて日本の納税者は不幸だとつくづく思う。

バブル景気の発端となるプラザ合意をいとも簡単に受け入れたのが間違いの始まりで、国際通貨市場での円高誘導が見え見えの協調介入の提案を反論もせずに受け入れただけでなく、竹下蔵相は「1ドル=190円までは大丈夫」などと、余分な啖呵まで切った。そこまで自信があったのなら、円高を冷静に受け入れれば良いものを、予測を上回る急速な上昇に直面すると、輸出企業への円高の影響を緩和するためだと言って、ためらう日銀を金融緩和に大きく舵を切らせ、巨額の財政出動を伴う「緊急経済対策」を連発した。富裕層への大幅減税も敢行した。

当然の結果として生じたカネ余りが土地や株など資産価格の急上昇を招いたが、それを金融政策への黄信号・赤信号と認識し行動するのを怠った。「あれよあれよ」と見送るうちに、事態は「収束不能」を思わせるまで悪化。すると今度は、冷水を一気に浴びせるという、まことに不器用な施策で応じたのである。

象徴的だったのが、前回の終わり近くに書いた「総量規制」という大蔵省銀行局長の通達だった。当局者は「予想を超える急激な景気後退を招いた」と言っていたが、通達内容そのものに不備があったばかりでなく、自らの想像力が極端に乏しかったことを認めたに等しい。

通達にある不動産向け投資の抑制は、「住専」と呼ばれた住宅金融専門会社や、農協系金融機関を対象外としたため、不動産向けの投機資金が一時的に農協系金融機関から住専に流れ、住専は住専で本業の住宅ローン以外の不動産投資に多額の資金を投入、これが焦げ付いて、住専の不良債権問題がまず表面化する。その一方で、銀行などは融資証明を出しておきながら、貸さない、あるいは途中で融資を打ち切るなど、貸し渋り・貸し剥がしが常態化し、ハシゴを外された多くの投資家が金策の道を閉ざされて混乱が広がった。

総量規制が出たのは90年3月で、翌91年11月に行った国土庁の臨時地価調査で「全国的に横ばいないしは微減」との結果が出ると、12月20日にこの通達は解除される。政府部内のドタバタが忍ばれるではないか。

89年5月から金融引締めに転じていた日銀は、90年8月まで4度にわたり6%まで引き上げていた公定歩合を、91年7、11、12月の3度0・5ポイントずつ引き下げ、翌年、翌々年も2回ずつ下げて93年9月には1・75%とし、それから2年後の95年にも2度下げて0・5%、事実上のゼロ金利としている。けれども金利操作だけで変えられる事態ではなかった。

89年末時点で279 7兆円とされた日本全体の不動産価値は、90〜2002年までに1000兆円減価し、株価を合わせると、バブル崩壊で失われた総額は約1400兆円とされる。

日本経済不振の原動力となったのは、銀行はじめ金融機関が抱えた巨額の不良債権と、その処理をめぐる不手際だった。

通常、融資への返済が滞った場合、金融機関は引当金を積み増す必要が生ずるが、これが巨額に上ると会計を圧迫して経営上の自由が奪われ、対外信用も損なわれるのを嫌って、追い貸しなどで債務返済が正常に行われていると装い、引当金の積み増しを極小化する努力を最大限に展開した。損失補填、利益供与、巨額損失の隠蔽……など、金融機関の不祥事が相次いで発覚する。景気が回復すれば損失も回復できるとの期待感も、不良債権の損失処分を回避する要因となったが、日本経済は回復に向かうどころか混迷の度を深めて行った。97年にタイを震源とし、東南アジア全域から韓国にも広がった通貨危機の影響も受ける。

この間、日本政府の対応は緩慢を極めた。国際社会はこれを Too Little, Too Lateと揶揄したが、本意は、日本政府が懸案と課題をグズグズ先送りしているだけで実際には何もしていない、という非難の合唱だった。

政府は当初、「大手金融機関は破綻させない」という方針で、住専7社のうち6社の破綻には目をつぶり、そこに多額の資金を融資していた銀行と農林系金融機関には公的資金を注入するなどしていたが、95年ごろには「市場から退場すべき企業は淘汰する」との方針に転じ、同年9月に兵庫銀行が戦後初めて経営破綻した銀行となる。97〜98年にかけてはこれがさらに広がり、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、山一證券、三洋証券などの大手金融機関が相次いで破綻した。

ここに至るまで、政府は急場凌ぎの資金注入を繰り返し、総額は90年代に100兆円を超えた。01年4月に総理になった小泉純一郎氏が、最初の所信表明演説で「不良債権処理の推進」を公言。「聖域なき構造改革」の1丁目1番地に位置付けたが、金融担当相にした大蔵省出身の柳沢伯夫氏が何もしない。翌02年9月の内閣改造で竹中平蔵氏を起用し、「金融再生プログラム」の実施でやっと決着が図られたのだった。竹中プランは賛否半ばするが、野放し状態の不良債権問題に終止符を打ったことは事実だった。ついでながら、改造の少し前に私がニューヨークから一時帰国した際、完工したばかりの官邸に招かれて小泉さんとサシで対話した際、ウォール街で柳沢氏の評判が悪いことを強く訴えたのが、少しは役に立ったかもしれない。

結果として、最盛期に15行を数えた都市銀行は、業績不振から合併に走り、現在では4行に集約されている。(つづく)

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