2023年04月14日号 Vol.443

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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戦略的成功と戦術的失敗
真珠湾攻撃3つの誤り

炎上する真珠湾上空を飛行する九七式艦上攻撃機(Photo public domain / U.S. Naval History and Heritage Command)

真珠湾攻撃の余話も記しておきたい。

しばしば「騙し討ち」説の根拠とされてきたのが、日本政府が対米交渉打ち切りを通告する覚書が攻撃発起の時刻より遅れて手交されたことである。

これにはさまざま事情があった。覚書は長文にわたり、外務省から駐米日本大使館へは、ワシントン時間の12月6日午前中に1部から13部まで送り終えたが、最重要の14部だけはアメリカでの開戦日となった7日未明から早朝にかけて送られた。本省からはワシントン時間午後1時にコーデル・ハル国務長官に手渡すよう指示されていたが、タイプアップする過程で、機密保持のため米国籍のタイピストを使えない。館員がたどたどしい手付きでキーを打った。当然時間がかかるが、館員には攻撃開始の時刻など知らされていない。前夜、異動が発令された館員の送別会が開かれ、二日酔いで作業が遅れたとの説もあるが、さほど深酔いした者はいなかったとも言われる。

いずれにせよ、覚書の清書が完了したのは真珠湾攻撃開始から30分後の午後1時50分になっていた。館員はこの時点でも「既に攻撃中」の事実を知らない。

野村吉三郎、来栖三郎両大使は2度にわたってハル国務長官にアポイントメントの遅延を要請、午後2時20分に長官室に入った。ハル長官は、「これほど恥知らずで、偽りとこじつけだらけの文書は見たことがない」と述べたとされるが、アメリカ政府は日本の外交暗号を解読しており、中身はとうに承知していた。日本側からの手交が遅れたのは誉められたことではないが、悪意ではなく、たかだか1時間余のことである。外交交渉で、この程度の遅延は珍しいことではない。大げさに騙し討ちの根拠とするのは如何なものかと思う。

翌8日、ローズベルト大統領は日本への宣戦布告を求める「恥辱の日演説」を議会で行った。演説で、「日本と太平洋の平和について交渉を進めていた」と述べたが、最後通牒となったハル・ノートの存在も含め、日本側を開戦に追い込んでいった経緯(大統領にとって、これこそが外交の勝利だった)については一言も説明しなかった。

次に、真珠湾攻撃の評価である。中学生の頃から日米戦争に関するさまざまな書物や資料を読み込んできた私の結論を言えば、戦略的には見るべき点があったが、戦術的には失敗であった。

アメリカ側の評価は、当初は日本海軍による統制の取れた空襲を受けたショックから「惨敗」の思いが強かったが、時日の経過とともに被害への評価が緩んでいった。

まず、日本軍が在泊艦船への攻撃に集中したことで、修理施設がほぼ無傷で残され、燃料タンクに貯留されていた450万ガロンの重油も残った。この燃料が炎上していれば、米艦隊は数ヵ月、作戦行動に出られなかったと言われる。さらに修理不能の形で爆沈した戦艦2隻は、高速空母と共同行動をするには旧式で速力も遅かった。熟練した戦艦の水兵・下士官を移し替えることで、その後主力となる空母機動部隊の兵員を充実させることにつながったという。

更迭されたハズバンド・キンメル少将に代わって太平洋艦隊司令長官に任命されたチェスター・ニミッツ提督(任命時点では海軍少将だったが、直後に異例の2階級特進で大将に昇任)が着任直後に内火艇で真珠湾を巡視した後、案内の水兵に語った言葉が残されている。

「日本の攻撃部隊は3つの大きな間違いを犯した。神はアメリカを見捨てていない」――ニミッツが語った3つの誤りとはこうだ。

第一、日本軍が攻撃の日に日曜日を選んだこと。艦隊乗組員の多くが上陸していて命を落とさずに済んだ。通常の訓練日に攻撃されていれば、第7艦隊は直ちに港外に誘い出されて全滅していただろう。3千人どころか3万8千人が犠牲になったかも知れない。

第二、ドライドックはじめ修理施設が攻撃を免れたこと。損傷した艦船の多くは着底していても港内の浅い海だ。大した手間をかけずに引き揚げられるし、修理して戦闘に復帰できる。

第三、港の中心から5マイルの丘の上にある450万ガロンの燃料タンク、そこに1発でも爆弾を落としていれば、爆弾でなくても零戦が機銃掃射をしていれば、大爆発して炎上したことは疑いない。数えきれない犠牲者が出ただろうし、燃料のない艦隊は行動できなくなった……。

もう一つ、日本艦隊にとって痛恨と言えたのは、真珠湾を母港としていた制式空母レキシントンとエンタープライズが、ウエーク島とミッドウエー島への増援物資輸送のため3隻の重巡洋艦と駆逐艦隊を随伴して留守だった|つまり討ち漏らしたことだった。

日本側攻撃部隊の中核となった第一航空艦隊で航空参謀を務めていた源田実中佐(のち大佐、戦後航空幕僚長、参院議員) が、『真珠湾作戦回顧録』に次のように書き残している。

「ハワイ作戦は、戦略的には不可欠のものであった……作戦は、戦術的には一応成功であった。ただ、航空母艦2隻を討ちもらしたことは、アメリカにとっては幸運であったが、わが方にとっては全くの不運であった……この2隻が在泊していたか、そうでなくてもわが索敵圏内にいたならば、防御力の薄弱な空母であるから、再起できないほどの打撃を与えることができたであろう。その後の戦局には大きく影響し、ミッドウェー攻略も成功したかもしれない…… (艦船以外の陸上施設に対する)第二撃をやらなかった件について、アメリカ側でも日本側でも大きな批判がある。あれほどの戦果を挙げたのであるから、第二撃を行なって戦果を拡充するのは、兵術家ならだれでも考えるところである…… 当日、第二次攻撃隊の最後の飛行機が着艦したのは、ハワイ時間午後3時近くであって、日没前3時間である。第一次、第二次攻撃隊は、着艦する順序に対艦船攻撃に備え、攻撃機は全機雷装、爆撃機は通常爆弾を装備していた。これらを陸上攻撃用に兵装を転換し、集団攻撃を行なうとすれば、発艦時刻は早くて5時ごろになり、夜間攻撃、夜間収容となる……作戦海面の天候は、風速13~15メートル、うねりは大きく、母艦は最大15度のローリングをしていた。この状況で、大攻撃隊の夜間収容を行なったとすれば、練度の高い部隊ではあったが、その混乱は想像に余るものがあり、相当の損失を覚悟しなければならなかった」。

日本の機動部隊を指揮した南雲忠一中将は、艦隊派と言われ、航空作戦に通じていないうえ、指揮下の艦船を失わずに帰途につきたがっていた。空母飛龍・蒼龍を擁する第2航空戦隊司令官・山口多聞少将は第2次攻撃終了後、帰還機に陸上攻撃の装備を急がせ「第2撃準備完了」の信号を発したが、長官への具申を問われると「南雲さんはやらんだろう」――南雲中将は敵の反撃が心配で、初めから反復攻撃は行わず帰途につく決断をしていた。

南雲中将は、真珠湾攻撃の戦略的意味を真に理解しておらず、それが戦術面の中途半端な攻撃姿勢にも現れていた。(つづく)

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