2023年5月12日号 Vol.445

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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再びニューヨーク赴任
現実無視の不景気ムード

ビル・クリントン大統領とその内閣(1993年)The Clinton administration in the Cabinet Room / 1993 (Photo public domain)

テレビ朝日のネットワークニューズのアンカーをしていて常に胸中に去来していたのは「こんなはずではなかった」という思いだった。

取材の現場に出ることがほとんどなく、他人が書いた原稿を読まされる作業が大半。ジャーナリストとして磨き続けてきたはずの好奇心や探究心に曇りが生じていると感じていた。局の幹部から「どうですか」と聞かれるたびに、「現場に出たい」「タマが飛んでくるところで仕事がしたい」と答えることが多くなった。

番組の視聴率が伸び悩んでいたこともあって、「内田さんはやはり外国にいてもらった方が良いかも知れませんね。外国といえばニューヨークでしょう」――報道センター長として、私を間近に見ていた早河洋・現会長が決断を下してくれた。丸2年、1993年3月末でアンカーを辞し、渡米の準備に入る。『内田忠男モーニングショー』を含めると4年半の東京暮らしだった。

4月の終わりだったか、ニューヨーク支局に駐在しながら、世界の各地に出かけて国際情勢全般を見るリポーター・アンカー、日本語的には「国際問題専任キャスター」という職名で再び太平洋を渡る。赴任にあたっては桑田弘一郎社長と早河氏がニューヨークまで私たち夫婦に同行して下さった。契約タレントの身には異例の厚遇だった。

4年半ぶりのニューヨークで、まず変わっていたのは、テレビ朝日のニューヨーク支局が、ロックフェラーセンターのAPビルから3番街53丁目に引っ越していたこと。街並みはというと、相変わらず雑然混沌としていて、91年3月に底を打った景気後退の影響もまだ残っており、往時の活気に欠ける感じがした。

まず住み家を決めなければならない。国連本部に近い47丁目と2番街のコーナーに建つ初代事務総長ダグ・ハマーショルドの名のついたコンドミニアム、37階の2寝室2・5浴室の部屋に決めた。東向きでイーストリバーを挟んでロングアイランド・シティとクイーンズの展望が広がるが、景色などは1週間も眺めていれば飽きるので、あまり問題にしなかった。内装などにも不満はあったが、支局をはじめミッドタウン各所への地の利の良さが決め手だった。賃料は月3500ドル。この家賃は、その後、契約更新の都度上がって、11年後に出る頃には5000ドルになっていた。

私が留守にしていた間にアメリカの大統領が代わった。76年以来、欠かさず現場で見てきた大統領選を92年だけ見られなかった。その選挙で再選を目指した共和党のジョージ・H・W・ブッシュ(父親の方)が敗れ、南部アーカンソー州で知事をしていたビル・クリントンが選ばれたからだ。伝統的に民主党が強い北東部と太平洋岸諸州に加え、ミネソタからルイジアナに至る中西部を南北に縦断するベルトで共和党が敗北していた。

68歳のブッシュに対してクリントンは46歳、若さはあっても、さほどキラキラした印象ではなかったのだが、70年代の自信喪失から国を救ったロナルド・レーガン以来の保守派統治が飽きられた面もあっただろう。

「Economy Stupid」――92ヵ月間続いた好景気がブッシュ政権半ばの90年夏から後退に転じたことが、クリントンの攻めの材料になった。現実には後退局面は8ヵ月間に過ぎず、前述したように選挙の年の3月に底入れして、11月の投票日までには成長軌道を回復していたのだが、クリントン流のまことしやかなレトリックと口数の多さが覆い隠してしまった。そうした現実無視の不景気ムードが、私が戻った選挙翌年のニューヨークにも影を落としていたのだった。

私は、このクリントンという政治家が好きになれなかった。

クリントンを私が初めてみたのは、前回、日本に帰国する前の88年7月にアトランタで開かれた民主党全国大会だった。2期8年続いたレーガン政権の後の政権を決める大統領選挙の年で、政権奪還を期した民主党はマサチューセッツ州のマイケル・デュカキス知事を大統領候補に、副大統領候補にはロイド・ベンツェン上院議員(テキサス州)を指名したのだが、クリントンは、そのデュカキス指名を推薦する演説で登壇した。

当時はまだ41歳。ABCニューズのアンカー、ピーター・ジェニングスが「聡明で能力に溢れた若き政治家」とベタ褒めしていたが、演説は酷かった。指名演説というのは、正式指名に至るロール・コール(各州がそれぞれの指名候補を公表する手続き)を前に、15分程度でデュカキスという人物の利点・長所を簡潔明快に述べるのが使命とされる。場内にはすでに「We want Mike」の歓声が渦巻き、大会のクライマックスに導こうとしていた。

壇上に上がったクリントンは、そうした歓声を制止しながら、レーガノミクス批判に始まって、デュカキス知事が州政で行った社会福祉改革、財政均衡の実績などをクドクドと列挙した。聴衆の感動を呼ぶには程遠い、ただただ冗漫で退屈な演説を延々と続けた。私は現場の記者席でこれを聞いていたので、後になって聞かされたのだが、ABCもNBCも途中で演説の中継をカットしたほどだった。デュカキス陣営のスタッフも、これではロール・コールが遅れてプライム・タイムの放送時間からはみ出してしまうし、盛り上がった場内の興奮にも水をさすと考えて、テレプロムプター上に「Please finish=終わりなさい」と表示したが、自分の演説に酔い痴れていたクリントンは見ていなかった。原稿も見ずに異例の長広舌を続けていたからだった。

場内で聞いていた私の周辺には「disaster=災難→最悪」という誹りが広がる。ジム・ライト下院議長(テキサス州選出)は、壇上のクリントンに向けて「ノドを切るぞ」という仕草をして終わらせようとしたが、それでもやめなかった。与えられた15分間を倍以上過ぎて、クリントンが「最後に……」と言うのを聞いて、聴衆はようやくまばらな拍手で応えた。

だいぶ後になって、「あれは私の人生で最悪の時間だった」というクリントン自身の反省の弁を聞いたが、党大会直後のニューズウイーク誌は「常識に照らせば、クリントンの政治家生命はこれで終わりだ」と書いたし、地元アーカンソー州の新聞ガゼッタでさえ「unmitigated disaster=紛れもない大失敗」と酷評した。

もちろん、私の印象が良かったはずがない。「他人の迷惑を顧みない、他人の功績を我がことのように喧伝する自己顕示欲一辺倒の男」という評価が、その後ずっと付きまとうことになる。

クリントンの指名演説が災いしたわけでもなかろうが、その年の選挙は共和党ブッシュ候補の圧勝に終わる。それより4年前、レーガン大統領が再選に臨んだ選挙で、民主党のウオルター・モンデール(カーター政権の副大統領、のち駐日大使)が、出身地のミネソタ州と首都ワシントンを取っただけで獲得選挙人13という最悪の敗北を喫したよりはマシだったが、デュカキスの獲得州は10州と首都ワシントンだけ、得票率もブッシュの53・4%に対し45・7%という惨敗だった。

しかし、その4年後の選挙では、クリントン自身が出馬して民主党の指名を獲得、本選挙でも現職を破って当選してしまったのだから、政治というのはわからない。ただ、私がニューヨークに戻った数ヵ月後、クリントン大統領は、私が観察した通りの行動に出る。(一部敬称略、つづく)


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