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 1980 年 8 月、レーニン造船所前(ポーランド、グダンスク)でのストライキ
Photo courtesy : Nationaal Archief Materiaalsoort, Public domein(CC0)
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 1981年4月、さ しもの酷寒もようやく 去って初夏を思わせる日 和が始まった頃、ニュー ヨーク駐在の番組プロデ ューサーから「ポーラン ドに行って下さい」と言 われた。  ポーランドといえば、 その前年8月、北部バ ルト海に面したグダン スクの造船所でストラ イキが発生、翌月には 自主管理の労働組合「連 帯」(ポーランド語で
月3日から6日にかけ てと、 日から 日ま での2度にわたること となった。  最初の出張から帰る と、すぐに首都ワシン トンに向かい、金曜日 8日の本番は、ホワイ トハウス北側のラファイ エット広場に特設した野 外スタジオに、カーター 前政権で国防長官を務 めたハロルド・ブラウン 氏を招いて生の掛け合い をするプログラム。こ れを終えて、翌日夜に は再びポーランドに向 かうという強行日程だっ た。  ワシントンでの特設ス タジオ(盆踊り舞台のよ うな櫓を組んだ)といい、 ポーランドからの生放送 といい、この番組にか けた局側の並々ならぬ 覚悟と意欲が察しられ よう。しかも、 日の ポーランドからの生放 送は、国営放送のスタ ジオと首都ワルシャワの 街頭を結んだ2元生中 継という力の入れ方で、 文字通り「ポーランドの 今」を立体的に見せよう という仕掛け。スタジ オは私が仕切り、街頭 には東京から派遣され た安藤優子さんが出た が、通りがかりのポー ランド人たちが日本の
テレビ放送の物珍しさ
に強く反応して、安藤
さんは冒頭から群衆に
もみくちゃにされ、つい
にはベソをかいてしまう
一幕もあった。
 私は生放送に向けワ
ルシャワ市内の様々な場
所を訪ねてリポートを
収録する一方、マリノ
フスキー副首相との単独
会見も敢行したが、国
営放送のスタジオ設備
を使わせてもらう以上、 た在米邦字紙ビジネスニ
「連帯」への支持が極め て広範囲に及んでおり、 一般民衆の間に社会主 義体制への不信感が根強 く広がっていることだっ た。東欧では、五六年 のハンガリー、六八年 のチェコと、二度にわた って、民衆の自由化への 動きが、ソ連の軍事力 によって圧殺された歴史 がある。その轍を踏ま ぬためには、エスカレー トを重ねる民衆の要求 をどこで食い止めるか、 政府と統一労働者党(共 産党)の指導力が問われ ている。第二次大戦後 に構築された東西両陣 営の構造が、三十五年 を経て、いまその内部 から崩壊しようとして いるーーその予兆をポー ランドで目撃した感が 深かった......  現実には、東欧の社 会主義統治が崩壊した のは 年のことで、そ れまでに8年の歳月を
げに「No Communism, No Russia」と訴えてく
「いつ何が入荷するかわ からない。だから私は 1日に3度もここにきて 入荷の瞬間に巡り会う 幸運を待つんです」と流 暢な英語で話してくれ る主婦がいた。 ところ が、公営市場とは別の バザールに行ってみると、 真っ赤なトマトも、アス パラガスやレタスやキュ ウリ、粒揃いのジャガイ モも山積みにされてい た。タマゴも果物もある。 値段が公営市場の倍以 上するだけだ。配給制 で、本来あってはならぬ はずの食肉、砂糖、バ ターなどもバザールの商 人にコネをつければ調達 できるとも聞かされた。  ソ連が指導する社会 主義体制になって 年 余り、自由と欲望を無 視した計画経済の統制 に疲れた人々の間には、 資本主義が確実に忍び 寄り、芽吹いていたのだ った。
Solidarnosc、 英語で
ポーランド政府への表立 った批判を展開するわけ には行かない。 リポー トの内容も、スタジオ でのコメントも、表面 的な事実を平明に話す
ュースに執筆することに した。  6月5日付同紙一面 に『東西構造の崩壊を 目撃した』という場違い とも言えるセンセーショ
厳しい情報統制にもか かわらず、西側の情報 がかなり正確に伝わって いると感じた。とすれば、 暗く窮屈な社会主義よ り、自由で開放的な西 側の体制に近づくのは、 もはや止めようがない と思ったのだった。  ただ、意外な側面も あった。  <ポーランド経済、事 実上の倒産状態 < 対 外債務返済のメド立た ず < 物不足さらに深 刻 ......出発前に読んだ ポーランド関係の新聞記 事は絶望的な状況を告 げるものばかりだったが、 実際この目で見てみる と、これらの報道に多 少の誇張があることを知 った。  ワルシャワ市内で行列 はよく目にしたが、何 のためかと覗いてみる と、アイスクリームやチ
はSolidarity)が結成さ れていた。労働者の組
織としては、政府主導の 「労働組合中央評議会」 があるだけで、労働者 が自由に自主的な活動 をするなど考えられな かった時代、造船所の 電気工だったレフ・ヴァ ウェンサ(当時日本のメ ディアの多くはワレサと 表記していた)が中心と なって全国規模の組織に まで発展させ、反共産 主義の運動に半ば公然 と乗り出していた。テ レビ朝日は、そのポー
「これを全部替えるの か」と怪訝そうに聞き 返し、「もちろん」と答 えると、少し嬉しげな 表情になって現地通貨を 数え始めた。3200 ズローチ、1ドル ズロ ーチが公定レートと知れ た。この窓口女性の表 情変化の謎はすぐに解 ける。 まず空港で乗っ たタクシーの運転手が 米ドルとの交換を要求、 1ドル100ズローチだ という。それは断って、 タクシー代を5ドル紙幣 で支払い、「つりは要ら ないよ」。ホテルで降り ると、卑屈な顔の男た ちが「チェンジ?」と寄
ランドに取材団を送り、 現地からの生放送を企 画したのだった。  ただ、私には毎週金 曜日の生放送に出演す る使命がある。そこで ポーランドへの出張は5
冷戦下のポーランドで 東西構造崩壊の予兆
Untitled,(Detail 37)
だけで、抑制を効かせ ナルな横見出しが躍り、 たものにせざるを得ず、 『民主化の波、社会主
要することになるのだが、 ってくる。むろん「つり
ョコレートやタバコなど、 嗜好品目当てのものが 多かった。計画経済とい う統制がつきものの社 会主義体制下では、物 不足は恒常的と言って良 い。  公営スーパーでは、食 肉、タマゴ、冷凍食品 などのケースが空っぽな のをよく見かけたし、 一角に人だかりがして いるので行ってみると、 マカロニの入荷だった。
国際ジャーナリスト 内田 忠男
最初の入国以来、私が 感じていた率直な思いと はかけ離れたものになっ た。  それでも、私自身の ジャーナリスティックな 感想は記録しておく必 要があると考えた。率 直に言えば、東西冷戦 下のこの時点で「社会主 義に未来はない」という 確信に近いものを得た ことだった。プロデュー サーの許可を得た上で、 私が編集主幹の座にあっ
義洗う、広がる連帯へ の支持』の縦見出しで、 ポーランド取材のルポを 掲載した。 ......ポーランド滞在中、 最も印象深かったのは、 社会主義国では初めて 結成された自主管理労組
ポーランドとの出会いの 時点でこのような観察 ができたことは、我な がら慧眼であったと思っ ている。その背景には、 宗主国であるソ連に衰 退の兆しが顕著になりつ つある状況があった。  社会主義の危機を具 体的に感じたのは、入 国早々の現地通貨との 交換に始まっていた。  当時のポーランド政 府は、入国する外国人 旅行者に、滞在日数に
銭」の意味ではない。今 度は1ドル130ズロー チ、断るとさらに吊り 上がった。公定レートと 闇のレートで4倍超の開 き、ここにポーランド経 済が抱える修復不能の 谷間を見た。  さらに市内での取材を 重ねるうち、ごく普通 の市民たちが、天真爛 漫と言えるほどあけっ広
ドルを掛けた分の米 ドルを現地通貨に替え ることを義務付けてい た。私の最初の入国か らの滞在は4日間だか ら ドルで良いのだが、 100ドル紙幣を差し 出した。窓口の女性は
る。「Japan, America good」とも。体制側の
(つづく)
















































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