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・1989 年の G7 に参加した各国首脳(上段左 :George Bush Presidential Library and Museum)・1989 年ブッシュ大統領の就任式(下段右)・人権 NGO「フ ランス自由=ダニエル・ミッテラン財団」の HP に掲げられたダニエル夫人(下段左)
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と許可が出た。  大統領就任式は酷寒 の季節。妻ともども、完 全防寒の準備をして出か けたが、この年のワシン トン 、就任式当日
も呼ばれた。
  年にジスカール・デ スタン仏大統領の呼びか けで始まった 7サミッ トは、 年のヴェルサイユ・ サミットに始まる2巡目
米大統領就任式や 7 要人単独インタビューなど 海外出張から伝えた世界
「フランス自由= ダニエル・ミッテラン財
(つづく)
Untitled,(Detail 58)
自由主義・市場経済への 合流を求めてきた年でも あった。これが顕在化す るのは年の後半で、 月
トとなり、やがてベルリ ンの壁崩壊を招く東ドイ ツ政府による「旅行自由 化宣言」への呼水となった。  こうした情勢を反映し て、サミットでは「東西 関係に関する宣言」と題 した政治宣言も採択さ れ、「我々はポーランドと ハンガリーで進められて いる改革の過程を歓迎す る。これら両国で起きて いる政治的変革は経済的 発展なくしては持続し難
団」を創立し、貧困や圧 るようにも見えた。それ 政に苦しむ人々に対する というのも、ミッテラン 支援活動を始め、特にチ 氏はレジスタンス当時か ベットやクルド、ラテン・ ら付き合いのあったアン アメリカなどの抑圧され ヌ・パンジョという女性 た人々に支援の手を差し との間に、マザリーヌと 伸べていた。私たちは、 いう婚外子をもうけてい
国際ジャーナリスト 内田 忠男
 東京で月曜から金曜ま は華氏 度、摂氏では を終え、この年3巡目に の「ベルリンの壁崩壊」で で帯の番組をやらされて 度を超える温暖さだった。 入った。発案国であるフ 頂点に達するのだが、こ
いれば、旅行の自由は制 ブラックタイで出かけた 約される。国内でもそう 前夜祭の行事もドンチャ だから海外はもっと難し ン騒ぎはなく、新大統領 かろうと考えていたが、 の地味な性格を映した穏 実際はそうでもなかった。 健なもので、出席したセ
ランスの熱意は相当なも の7月の時点でも、非共
休み以外にも、結構外国
に出ていたのである。
 最初は 年1月 日
のアメリカ大統領就任
式。自信喪失の 年代か
ら「復活の 年代」、そ
れをもたらした8年間の
レーガン治世が終盤を迎
え、前年 月の選挙でジ
ョージ・ ・ ・ブッシュ
副大統領(父)が楽勝し
た。その新大統領から就
任祝賀行事への招待状が
舞い込んだのである。就
任式の 日が金曜日で、 ルシュ・サミット」と呼ば 前夜祭に出るには、 日 れた。高さを揃えた建物 の本番を終えて午後のフ が整然と並ぶパリ市街と ライトで東京を発てば同 一変、フランス最初と言 じ日の昼前に現地に着け って良い超高層ビル、そ るから間に合う。スタジ れも全面ガラス張りの現 オに出られないのは 日 代的な装いだ。フランス だけで済む とい 革命の基本原則を記し う幸運も手伝って、現地 たとされる人権宣言から 2泊、機中1泊の短期 200周年を記念して建 訪米に、「行って下さい」 てられ、「新凱旋門」と
際金融、経済効率、貿 易、開発、最貧国問題、 国家債務、環境、麻薬、
レブリティの表情にもあ
る種の自信に裏付けられ
た落ち着きが見られた。 エイズまで 分野を網羅
 当時 歳。第一印象 はフランスのファースト・ レディというより、目が 大きく、たくましい感じ
仰々しい就任行事を期待 したであろう番組スタッ フには拍子抜けの感が深 かった。「これが今のアメ リカ」と私は告げた。  次の海外出張は、その 年の7月、 7=主要 国首脳会議だった。パリ 郊外に新装されたグラン
した 項目にわたる分厚 く、中身の濃いものにな った。  この年はまた「 年革 命」とも呼ばれる、東欧 諸国が雪崩を打って社会 主義統治をやめ、西側の
主義労働者党(共産党) いものと考える。我々は、 政権のハンガリーでも複 この過程を支援し、両国 数政党制が認められ、6 の経済を後戻りしない形 月 日にはオーストリア で変化させ開放させるこ との国境を開放した。こ とを目指した経済的支援 れは東ドイツ市民が大挙 を適宜かつ調整した形で 西ドイツに脱出するルー 考慮する用意がある......
の問いには、「liberale」 とたった一言。ただそこ
ダルシュ=Grand Arche で開かれたことから「ア
改革のはずみを維持する
ように、支援の手を差し
のべるべきものと考える」
との条項が含まれた。
 さらに、この年6月4
日に起きた中国・北京で
の「天安門事件」について
も「我々はすでに、中国
における人権を無視した
激しい抑圧を非難した。
中国当局に、民主主義
と自由に対する正当な権 ってくれた結果、私はサ
ので、最も重要とされた 産党系勢力の自由化が進 「経済宣言」は、総論か み、ポーランドでは6月 ら、国際経済情勢、国 に一部不完全ながら複数 政党による自由選挙が実 施され、レフ・ヴァウエ ンサ議長率いる「連帯」が 政権を奪取、また社会
その財団の本部に招かれ た。私が英語で質問する と、夫人がフランス語で 答え、それを傍に控えた 側近の女性が英語に翻訳 してくれる。
たことが広く知られてい た。 年の大統領就任 直後に、記者団からこの ことについて聞かれ、「Et alors ? それが何か(問 題かね)」と応じていた。 ミッテランとの恋は、と うの昔に冷めていたので ある。  あなたの政治信条は? 
利を主張したに過ぎない 人々に対する行為を中止 するよう強く促す。この
ミットを横目に注視しな がらも、主催国フランス のフランソワ・ミッテラン 大統領のダニエル夫人と 単独インタビューをするこ とになった。  夫人は、 年に人権
と熱心に語った。ドイツ 占領下の時代、親独のヴ ィシー政権に反旗を翻し てレジスタンス運動に身 を投じ、その過程でヴィ シー政権の熱烈な支持者 からレジスタンスに転向 したミッテラン氏と会い、 恋におちた。その頃につ いて質問すると、「遠い 昔のことですよ」と素っ 気ない。素っ気ないだけ でなく、思い出すのを拒 否する意志が滲み出てい
合しても必ず対立が生 じるでしょう」と否定的 な言葉。では統合には 反対されるのですか?と 問うと、「いや、そうで はない。ただじっくり納 得するまで話し合うこと が必要だと思います」― ―。語尾に至るまで常に きっちりと発音していた。 そのフランス語の余韻が 長く私の耳に残った。
抑圧に鑑み、我々各自
は、深甚なる非難の意を
表明し、二国間における
閣僚その他のハイレベル
の接触を停止し、中国と
の武器貿易を停止する措
置をとるに至った。さら
に、世界銀行による新規
融資の審査が延期される
べきことに同意した......
我々は、中華人民共和国
政府が、香港に対する信
頼を回復するために必要
な対応をとるよう求める。
我々は、国際社会の継続
的な支援が、香港に対す
る信頼を維持する上で重
要な要素になると考える」 のする毅然たる女性だっ と書き込んだ「中国に関 た。初対面の挨拶にも する宣言」を採択した。 微笑は浮かべたが目は笑
 ともすると形骸化が指 摘され始めていたサミッ トに、もう一度息を吹き 込もうというフランスの 強い意志が感じられるサ ミットだったが、これら本 筋は、外報・政治部とパ リ支局の仕事だ。テレビ 朝日と契約してから毎年 出ていた 7サミットに 何とか私を行かせようと、 プロデューサーが知恵を絞
っていなかった。自らが 立ち上げた財団の活動に ついて、「精神的にも物 質的にも恵まれている者 たちが、不幸な人々を
には、他人の介入を許 さない断固たる響きがあ った。当時はまだ =欧州共同体だったヨー ロッパ統合の動きについて は、「基本的な思想や歴
助けるのは当然のことで、 史の違う国々が一つにな この事業を始めるのが遅 るのは、決してたやすい 過ぎたと後悔している」 ことではない。無理に統
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