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記者からTVアンカー 新たな使命「大学教授」へ
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Untitled,(Detail 105)
取材の発起から編集・ 加工を経て作品に至る作
た資料の山、関連書籍
や新聞の切り抜きもどっ
さり積まれていた。それ
らを整理するのに数日を
要し、私の部屋はスッキ
リ綺麗になった。
 テレビ朝日との関係が
清算されても、ジャーナ
リストを辞めるつもりは
なかった。身分としては、
フリーランスになった。 ょうど半値という。月に
長」が自ら招致工作にあ たり、一時帰国の都度、 名古屋に招かれてキャン パスを見、市内の料理屋 などで接待を受けるうち、
国際ジャーナリスト 内田 忠男 業が完結するようにもな   っていた。
 2004年が明けて、 深めた記事を書くことに 続き自体は、依然、ルー  私の「テレビ朝日人 私がテレビ朝日にいる日 努めるようになっていた。 ティンとして生きていたが、 生」の晩年を示唆する が短くなっているのを急  私自身は、そうした「先 大元の取材対象の選択と ように、 世紀に入って、 速に感じ始めていた。 進的ジャーナリスト像」を いう時点で、インターネ 「テレビ朝日アメリカ」  東京でネットワークニュ 自らに課していたから、 ットなどの情報に頼るケ という現地法人の取締 ースのアンカーを務めて 活字から映像媒体に活 ースが多くなった。取材 役にも任命されていた。 いた私が、 年に再びニ 動の場を移した時点でも、 先の決定や選び出しにも 2004年という年は
ューヨークに赴任したの 「先進的」という自負は ウェブサイトが威力を発 私が 歳を迎える年であ  自宅に帰って、書斎に 5500ドル払っていた
は、世界中のニュースが 少なからず背負っていた。 揮する。 った。当時としては「定 していた二つ目のベッドル ものが2250ドルで住 この年が大統領選挙の年
 永住権保有者が長く 外国に居住することにつ いて弁護士に相談すると、
いち早く集まるニューヨ  テレビ朝日とは  こうした態様の変化の 年」がまだ 歳という企 ームで改めて部屋の中を める。 ークを基点に、時にはそ 1980年に専属出演 中で、テレビ朝日の人材 業が多かったから、会社 見回した。フリーランス  面白いことに、アパー
だったこともあって、その 情勢解説を頼まれること が多かったが、国際情勢 全般の動向、アメリカ経 済の現況と見通し、など
の発信地に飛んで、国際 契約を結んで 年目に にも変化が起きていた。 との縁を切るのが「早す
になったことで、ルーティン・ トの正面玄関から 丁 ワークはなくなる。世間 目レキシントン街の地下 に向け、何か伝えたいこ 鉄の駅までシャトルバス とがあっても、媒体を持 を運行していて、ここの の依頼もあった。
「2年ごとの再入国許可 証を取っておけば、4年 間の日本暮らしは問題な い」という。名古屋とい う土地には縁もゆかり もなかった。テレビ朝日 の系列局メーテレが、一 時帰国のたびに呼んでく れて朝の情報番組に出演 させてくれた程度だ。そ の縁を頼りに住居探しを 始めると、局のディレク ターの一人が結婚するつ もりでコンドミニアムを 買ったが、結婚が破談に なり、「その部屋を貸し たい」という。地下鉄東 山線の駅から3分という 至近の立地で、100平 米を超すユニット、駐車 場もある。「渡りに船」で 借りることにした。  現在も続く名古屋暮 らしは、このようにアタ フタと決まったのだった。
的な出来事や状況・情 入っていた。新聞社の在 勢を私の目で見、耳で聞 社期間を大きく超えたの き、肌で感じて、手早く である。この間に、 時 伝え、解説するのが主な 間ニューズ・チャンネルの 任務とされたからであっ 出現や、インターネット た。英語の肩書きにする の出現と急速な普及で、
若く、意欲的で有能な ぎる」歳でもなかった。「長 社員が取材陣に加わり、 い間、ご苦労でした」と 彼ら彼女らが確実に成 いう丁重な通告があって、 長していた。私のような 3月末で専属契約を終 外部の人材に頼らずと えることが決まった。 も、社員スタッフの手で、  住み慣れた個室に置い
たないのだから咄嗟には 住民になれば無料で利用 発信できない。今日ある できるという。考え直す ような などはま 余地もなく、ここに決め だなかった。毎月の定収 た。 入も当然なくなる。住居  現住所の家主の弁護 に5千ドルもの賃貸料を 士に電話で転居を伝え 払い続けるのは無謀に思 る。
 そうした中で、いくつ かの大学からオファーが あった。  最初に来たのが山梨 県立大学。高校時代の 同級生だった女性の配偶 者が学長になったばかり
と、「Anchor-Reporter」 取材手法にも大きな変 であり、「Commentator」 化が生じた。
でもあった。   世の中の趨勢に目を凝  全国紙の新聞記者と らし、さまざまな人々と して 年、その最後はロ の対話にヒントを得たり、 サンゼルス特派員だった。 新聞・雑誌など活字媒 取材手法的にはオーソド 体を読み漁ることで取材 ックスから現代的なもの テーマを選び出し、それ へ、インターネットなどは に見合った取材先を探す まだ気配もない時代だっ 作業に入る。分厚い電話 たが、足を使い現場に身 帳や年鑑、人名録など、 体を運んで体験する取 ケースにもよるが、かな 材とともに「、考える取材」 り煩雑な手続きを経て とでも言おうか、起きて 適切と思える取材先を いる事柄の真相・背景・ 決めたら、その相手に電 周辺条件などに目配り 話や手紙で取材を申し 気配りして深掘りしなが 込み、応じてくれれば、 ら、事態がどこまで発展 そこでやっとアポイント するか、影響を広げるか、 メントを取って出掛けて 視野を拡大し奥行きを 行く......という一連の手
えた。 年住み慣れたユ  「 年余という長い間、 で、特色のある教授が欲
ニットではあったが、引越 家賃などの滞納は一度も しを決断した。 なかった。良いテナント  3ヵ月も経って夏が近 でいてくれたことに感謝 づいてきた頃、ニューヨー したい。あなたの都合で クタイムズに新築の賃貸 いつでも引越しをして下 アパートの広告を見つけ さい」
しかったようで、専任教 授としての誘いを受けた が、私の方は、まだアメ リカでの暮らしを辞める 気になれなかった。夏休 みの初めに1週間ほど甲 府に行って集中講義をす る「客員教授」を引き受 け、国際関係論と、安 全保障を講ずることにな
た。  新居は、最上階の6  102丁目の1番街 階に決めた。 階という と2番街の間というか 高層階にあったこれまで ら、アッパーイーストサイ の部屋とは見える景色が
ドの北限に近い。むしろ、 110丁目から始まるハ ーレムに近い地域だ。と りあえず行ってみると、 ドアマンもいる6階建て
大違いだが、セキュリティ もほぼ万全で、屋内パー キングから自分の車に乗 れば、マンハッタン東側を 通る ドライブの
った。  それが2年目に入る と、今度は名古屋外国 語大学から熱烈な誘い が来た。「現代国際学部
(つづく)
の中層アパートで、まさ に建築工事が終わったば かり。2寝室2浴室のユ ニットがあるという。長 年住んできた2番街 丁目のコンドミニアムは 2寝室2・5浴室だが、 賃料はその半分。アテ ンダント付きのパーキン グもあって、こちらもち
丁目入り口が至近なの
で交通の便も良い。妻と
二人、永住権を取ってい
たから、「これで落ち着
ける」という安堵があった。
 ただ、仕事らしい仕 こちらも引くに引けなく 事はない。年に1、2度、 なった。 日本に一時帰国して、こ  2006年度、私が れまでお断りすることが 歳になる年で、「専任 多かった講演の仕事を受 教授として働ける4年 け、テレビ出演をする程 間」の条件で契約を結ん 度だった。講演のテーマは、 だ。





































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