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会談後、共同記者会見に臨む小泉総理大臣(左)とアッバース・パレスチナ自治政府大統領 (2006 年7月13日、パレスティナ・ラマッラ 写真提供:内閣広報室)
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後に私の事務所所属ジ ャーナリストの角谷浩一 にこの最初の出会いの話 をすると、「東京に来ら れた時に二人で会える算 段をしますか?」と聞い てきた。翌 年になって 5月の大型連休が明け た後、一時帰国する日程
ォール街はもちろん、ワ シントンでも......」。 小泉内閣は、それま での歴代内閣がグズグズ して果たせなかった金融 機関の不良債権処理を、 経済構造改革の大きな 柱に据えていたのだが、 肝心の柳澤担当相が動
勢の中で非常に価値ある ことであり、私としては、 日本にも貢献する余地 があると考えていた。 「日本は過去にユダヤ
醸成するとともに、持続
的な経済開発を伴う健
全なパレスティナ国家を、
イスラエルとヨルダンの
協力も得て樹立すること パクトを与える事業に成
Untitled,(Detail 107)
して不良債権処理に乗 苦渋に満ちた暮らしに追 り出す。何よりスピード い込まれた。4次にわた 感があって、金融機関も、 る中東戦争は全てイスラ 不良債権で生き延びてい エルの勝利に帰し、アラ
ただけで、彼自身のアイ デアだったとは思えない。 指示を受けた外務省の 担当課は、おそらく困 惑したであろう。そもそ も、彼らには「中東和平 に積極協力する」などと いう気持ちはかけらもな い。「火中の栗を拾う」も ので、「日本が迂闊に手
私が名古屋に転居し を角谷に伝えると、「やっ た2006年は、5年 てみます」。そして程なく、 半近くにわたった小泉純 「決まりました」の連絡 一郎政権が終わる年であ が入った。
かなかった。先例ばかり
気にしているから進むわ
けがない。金融機関の改
革を欠伸する思いで見続
けてきたアメリカも、新 スティナの政策、何とか 政権の誕生に期待してい ならないですか」という たのだが、「また裏切ら ことだった。 れた」という空気が濃厚
ブ側は屈辱の日々を過ご してきた。 この長い不公平に終止 符をうつべく、冷戦が終 わった頃からノルウェー外 務省が息の長い秘密交 渉に乗り出し、 年8 月にパレスティナの暫定 自治を決めた「オスロ合 意」に漕ぎつけた。ヨル ダン川西岸とガザ地区に 新国家を建設しようと
国際ジャーナリスト 内田 忠男
った。「総裁任期が終わ 私は日曜日の 日に
る9月で辞める」と早く 東京着。火曜日の朝に完
から決断、年明け6日の 成したばかりの新官邸で
新年互礼会の挨拶で「と 会えることになった。4
かく予想は難しいが、今 月 日にオープンしたば に漂っていた。 年必ず当たる予想があ かりで、まだ一月も経っ 小泉は、「フーン」とう る。それは私が退陣する ていない。入口の車寄せ なずいて、それ以上言葉 ことだ」と述べたことが などはまだ工事中だった。
1947年に「パレス ティナ分割」を決めた国 連総会決議があり、翌 年には欧米主要国の手厚
伝えられていた。 角谷の車を降りて、新築 その小泉が、7月に の香りがたち込める建物 なって中東への旅に出た。 に入ると、そのまま最上 それを知った時、「私が言 階の「総理フロア」に案内 ったことを覚えていてく され、執務室とおぼしき れた」と、特別な感慨が 広い部屋に通される。真 湧いたのだった。 ん中に大きなデスク、そ 年7月、イタリア・ の前に並べられた安楽椅 ジェノバで開かれた 8 子の一つに座らされると、 サミットに小泉が初めて すぐに小泉がやってきた。 出席した際、日本のプレ 通り一遍の挨拶をする スセンターに足を運んで、 間もなく、「何か聞いて いきなり私を見つけると、 おくことある?」と聞か 笑顔で近づいてきて「内 れたので、すかさず「柳澤 田さんも来てたの、ニュ (伯夫・金融担当相)さ ーヨークから?」と尋ねら ん、評判が悪いですよ」 れ、短い会話を交わした。 と答えた。「どこで?「」ウ
を発しなかったが、9月 い支援を受けたユダヤ人 の内閣改造で柳澤を更 国家イスラエルが建国さ いうのである。
迭し、経済財政政策担 れたが、パレスティナ人 当相の竹中平蔵に兼務 たちは国家創設どころか、 させた。翌月には「金融 住み慣れた郷土から引 再生プログラム」を策定 き離され、難民となって
占領していたイスラエ
ル軍の撤退が始まり、
年には暫定自治政府が
開設され、国家樹立に
向けた交渉も始まったの
だが、国境の画定・エル
サレムの地位・難民問題
......を巡る最終地位交
渉が2000年7月に
決裂、和平への道筋が頓
挫していた。
中東の火薬庫と呼ば
れてきたパレスティナに
和平を実現することは、 の支援について説明した。 冷戦が終結し、グローバ 具体的には、大統領府 ル化が進展する国際情 の建物再建・内装拡充、
たゾンビ企業も従わざる を得なかった。 「もう一つ」と私が付け 加えたのは、「中東パレ
平和と繁栄の回廊 小泉指示への苦肉の策
が不可欠だ」と説明した。 むろん、費用は概ね日本 が負担する。 この構想が、誰の知恵 で生み出されたか、定か
人を虐待した歴史を持
たず、アラブ人とも諍い
を起こしたことがない。
原油などの調達では最良
のお客さんだ。そういう
立場を利用して、中東
和平、イスラエルとパレ
スティナの2国家共存に
向けて積極的な役割が
果たせると思うのですが
......外務省はいい顔しな
いでしょうがね」
小泉はこれも黙って聞
いて、答えなかった。しかし、
私の提案を忘れていたわ 本の4者が協力して、農 これも推測になるが、 けではなかったのだろう。 産加工団地などを建設、 年に特殊法人「国際協力 首相退陣を目前にして、 付加価値のある産品を 事業団」から、独立行政 嫌がる外務省をどう説 恒常的に出荷することで、 法人「国際協力機構」に 得したのか、自ら現地に パレスティナの経済的自 改称した に「、後 足を運ぶ決心をしたのだ 立を促す事業を確立す 世に禍根を残さぬような
雇用を創出する事業に
2500万ドルを支援
する」と伝えた。
さらに、「イスラエルと
パレスティナの共存共栄
に向け、人々に希望を与
える中長期的取組も重
要と考える」として、「平
和と繁栄の回廊」構想を
提案した。
これは、ヨルダン渓谷 を出すなど考えたくもな と呼ばれる肥沃な緑地 い」のが本音だ。困った 帯に、パレスティナ、イ 役人が常套的に使うのが スラエル、ヨルダンと日 「外部の協力者」である。
った。 る構想で、小泉は「日本 アイデアを考えろ」と迫 外務省の記録による は、イスラエルと将来独 ったに違いない。 と、7月 日、小泉はパ 立したパレスティナ国家 「後世に禍根を残さぬ」 レスティナ暫定自治区の が平和かつ安全に共存す とは、「後々、外務省が 仮の首都ラマッラに赴き、 る『2国家解決』を支持 足を取られて苦労するよ 自治政府大統領マフムー している。『2国家解決』 うなものでない......」と ド・アッバースと会って、 を実現するには、人々に いう意味である。 人道支援はじめ中長期 『平和の配当』をもたら 「平和と繁栄の回廊」
的な視野に立った地域発 展と域内協力進展のため
し、当事者間の信頼を とは良くも名付けたもの
専門家の雇用などを通
じた大統領府の機能強
化のため約310万ドル
を支援するほか、ガザ地
区の衛生改善、緊急医
療計画、水道整備事業、
西岸地区のゴミ処理機 ではない。小泉は、「中 材整備と公衆衛生状況 東和平に積極協力する 改善など「 万労働日の 方策を考えろ」と指示し
長するとは思えない。小 泉提案から 年経った今 も、細々と生き続けては いるようだが、困惑の果 てに役人が絞り出した 答えは、この程度のこと であった。
で、名前だけは大層なも のだが、中身を熟視す れば、パレスティナ、イ スラエル双方に強いイン
(敬称略、つづく)