2022年1月14日号 Vol.413

コロナ禍と重なる世界観
プペルと少年が導く未来とは
「えんとつ町のプペル」西野亮廣/廣田裕介

© Akihiro Nishino / “Poupelle of Chimney Town” Production Committee

昨年末、NYとLAを皮切りに全米400以上の劇場で公開された「えんとつ町のプペル」は、廣田裕介監督、西野亮廣原作・脚本のアニメーション映画。現在進行形のパンデミックを予見したかのような閉ざされた町が舞台で、主人公のルビッチが暗黒の雲に覆われた空の向こう側に広がる星群を探し求め続けるファンタジーだ。

西野のキャリアは漫才師から始まった。人を笑わせることが仕事だが、客がどんなネタで笑うのかを、いわば先見する力を持ち合わせていなければ成せないことである。そういう意味で、西野はプペルを作る前から未来の自分を予知していたのかもしれない。



「子どもの頃からアニメが好きでしたが、エンタメに興味を持ってからは、興奮できるものしか手をつけませんでしたね」。自己流で道を切り開き、お笑いだけでなく、絵本、映画、ミュージカル、歌舞伎と、ジャンルを超えて活動の場を広げてきた。その活動領域は日本に留まらず、海を越えた世界へと照準を合わせる。

漫才師の北野武は映画監督として海外で認められ、それに続けとばかりに、綾部祐二、渡辺直美といったお笑い芸人が、言葉のハンディを越えて、ニューヨークへやってきている。「一人でも多くの人を楽しませたいと思う。でも、『日本語』に依存してしまうと1億2千万人が限界で、海を越えることができない。だから、ノンバーバルなものや翻訳のハードルが低い、例えば、声優で吹き替えができるアニメや絵本などに、エンタメ要素を乗せる必要があったのです」と逆境を乗り越えた彼なりの方法論を説明する。

西野亮廣

実は、そうしたギャップを埋める1つのヒントが、お笑い時代の舞台裏にも隠されていた。楽屋に置いてあったピアノやギターを弾いては遊んでいた西野の中に培われたのは音楽センスだ。「実はプペルは物語より先に曲がありました。その曲に併せて物語を組み立てていったのです」しかし、原作が出来たものの、無名作家のアニメ映画を観に来てくれる人はいないと先読みした西野は7章からなる物語から3章と4章を抜き出し、絵本を先に発表した。これが70万部を売るヒット作となる。そして満を持しての映画制作。しかし、誰もが予期できなかった新型コロナウイルスが世界の常識を変え、日本の劇場公開は2020年12月から、米国では1年遅れの劇場公開へとずれ込む。

「物語を書いたのは10年くらい前ですが、公開の時期がちょうどコロナと重なりました。明日が見えない、働きたくても働けない、家族を守っていけるのかという不安…怯える人がいる現在の世の中が、えんとつ町の世界観と重なった。夢や希望が持てない時代。結果的にこの映画は現状を生きる世界中の人に向けたメッセージになりました」と分析する。「これまで、常に新しいことに挑戦してきましたが、どうやれば成功するかはわかりません。コロナ禍と同じで、先が見えないのです。ただ確かなことは、見続けないと星は見えないということ。しつこく上を見続ける。そのうちに仲間が増えてくる。それをやめたらゲームオーバーです」

お笑いから映画へ、日本から世界へ、西野亮廣のエンターテイメントショーは、まだ始まったばかりだ。

廣田裕介

本作で西野とタッグを組んだのが廣田裕介監督。本人にとって初の長編アニメーションである。子どもの頃は、ドラゴンボールやガンダムを見てアニメが好きになり、コンピュータグラフィック(CG)を使ったものを作りたくてアニメ業界に入った。トイ・ストーリー(ピクサー制作)が人気を博していた頃のことである。
ひとことで「アニメ」といっても、ディズニーからジブリ、ピクサーなど、様々なスタイルの作品が溢れている。そんな中で監督はどのように個性を出しているのか。

「プペルは世界の人々が考えている『日本のアニメ』とは少し違いますが、自分が20年かけて培ってきたものをベストな方法で実現する。自分の『個性』は、その後からついてくると思っています。同作の閉ざされた世界は、西野さんのイメージの段階で江戸時代の鎖国がモチーフ。日本風の衣装であったり、看板が多い風景だったり、日本人が作るという意味で、日本のテイスト、自分にとって馴染み深い、取り入れやすいものを入れました。個人的に雑然とした路地裏などは、ドラマティックで好きなんです」。廣田監督が描いた「えんとつ町」は、どこかしら近未来の東京を彷彿させる。キャラクターは人種のるつぼを絵に描いたような異人種の顔立ちが並び、という独特の世界観「廣田ワールド」を作り出すことに成功している。

中でも強烈なインパクトを見せるのがゴミ人間のプペルだ。ゴミでできている体には、あたかも人間の魂が宿っているかのよう。外観は人間から一番かけ離れているのに、一番人間味があるように映る。

「原作を初めて読んだ時、ゴミ人間というのが本当にユニークな設定だと思いました。プペルは、人々が捨てた夢の象徴でした。ゴミは、ゴミ箱に捨てられ、人目のつかないところに追いやられますが、それは、我々が諦めた夢(目にもしたくない)にも見えます。ゴミが肯定されると、自分が否定されるわけです。逆に、夢を追いかける人ならゴミがゴミには見えないはずです。プペルは、純粋で頼りなかったりしますが、夢を追いかけている。だから僕たちは、勇気をもらえる」

「えんとつ町のプペル」の世界を信じるも信じないもあなた次第だ。しかし、パンデミックという苦境が続く今だからこそ、我々はルビッチのように、自分を信じ、友を信じ、星を見つけるまで、諦めずに空を見上げ続けることを忘れてはいけないのではないだろうか。それが夢だったとしても、それを信じている間は、夢は偽りのない現実の世界なのだから。(河野洋)


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