2020年6月5日号 Vol.375

NYで半世紀
日本人舞踊家の第一人者
一戸小枝子さんを偲ぶ


2013年の「葵上」。左から照日の巫女(Kristina Berger)、六条御息所(一戸さん)、大臣(濱田さん)All photos © Nan Melville」


1988年初演の「菊」は一戸さんのソロ。2011年の40周年記念公演より


2011年の40周年記念公演で世界初演を迎えた「Re-Birth」 (l to r) Atsushi Yahagi, Cho Ying Tsai, Heather Currie, Ari Someya


5月7日、一戸小枝子さんが新型コロナウイルス感染症で亡くなった。ニューヨークのモダンダンス界で活躍した日本人舞踊家のパイオニアの一人だ。コロナが奪っていくものには限りがない。

一戸さんは193 6年東京生まれ。現代舞踊の先覚者、石井漠の舞踊団で活動した後、1968年に来米。1970年、ジュリアード音楽院ダンス科在学中に「サエコ・イチノヘ・ダンス・カンパニー」を設立し、日本文化の美学に西洋の表現を融合した独自の舞踊を打ち立てた。十二単や束帯などに新解釈を施したオリジナルの衣装は、ニューヨーク・タイムズからも賞賛を受けた。

米国内で数々の賞を受賞し、2006年には長年の国際交流事業が認められ、外務大臣賞を受賞。稀代の演劇プロデューサー、故ハロルド・プリンスから「至上のダンサー、そして振付師」とお祝いの言葉が届いたそうだ。

筆者は、2009〜13年まで一戸さんのお手伝いをするご縁に恵まれた。驚いたのは、助成金申請書の作成から公演のプロモーションまで、ほとんどご自分でこなしておられたこと。英文の専門的な書類の書き方にも精通され、会話でも品のある美しい発音を操る一戸さんから学んだことは数え切れない。

ミッドタウンのご自宅兼オフィスにお邪魔すると、必ずお茶とお菓子を出して、お菓子が残ると「どうぞお持ちになって」と勧めて下さった。日本語も上品で、一戸さんに「あなた」と呼ばれると「貴女」と聞こえたものである。

控えめで優しく、背筋の伸びた立ち姿は年齢を経ても一輪の可憐な花のようだった。 夫のジョージさんとはおしどり夫婦で、「小枝子、何か甘いものあるかな?」とジョージさんが聞くと、「もう、子どもみたいに何ですか」と言いつつ、いそいそとキッチンに立って行かれた。ジョージさんは5年前に先立った。

そんな一戸さんが、舞台ではがらりと異なる姿を見せた。ライフワークともいえる舞踊版「源氏物語」の中に、嫉妬のあまり生霊となった六条御息所が源氏の正妻の葵上を取り殺す有名な場面も登場する。六条御息所役は一戸さん。その踊りにはおどろおどろしい怨念が漂い、背筋が冷えるほどの迫力だったことは忘れ難い。

2010〜14年に一戸さんのカンパニーに参加したダンサー・俳優の濱田としのりさん(加賀能楽座所属)にお話をうかがった。「9歳で終戦を迎え、カンパニー設立時はベトナム戦争真っただ中。80年代のエイズ禍でプリンシパルメンバーを失い、911のテロ、そして東日本大震災。小枝子さんはこれらの時代社会を踊り、創作活動を続けながら生き切ったのだと思います」

2011年の40周年記念公演の動画を濱田さんがアップロードしてくれた(観覧は別記YouTubeで)。1991年初演の「平安」は、日本古来の衣装に現代音楽という和洋融合の一戸さんらしい作品だ。「慎ましくも絡み合う男女の心象風景、蛍が群れ舞い遊ぶが如き群舞のフォーメーション」が見どころと濱田さん。世界初演の「Re-Birth」には、三味線奏者の駒幸夫氏がゲスト出演した。

一戸さん夫妻は、2015年にナーシング・ホームに入居した。濱田さんが面会に行く度、別れの挨拶代わりにバレエの動きのプリエを披露し合うのが習慣になった。ホームのスタッフから「サエコはダンサーだったのね」と驚きの声が上がったそうだ。「年末に会った時は車椅子でプリエは出来ませんでしたが、両手をバレエの1番のポジションにして目を細めて微笑んでくれました。あくまでもダンサーだったんですね」と濱田さん。

濱田さんは、一戸さんから石井獏の著書「おどるばか」を譲り受けた。一戸さんが線を引いた一節がある。「舞踊はその人の心の表徴である。民族の顔である。舞踊は芸術である以上、心と心の繋がりを持つためのものである」

まさに師の言葉の通りに生きた一戸さん。天国でジョージさんと再会してこまごまと世話を焼きながら、凛とした佇まいで踊っておられることだろう。一戸さん、本当にありがとうございました。(高橋友紀子)

「平安」http://youtu.be/o_cE4ooakUc
「Re-Birth」http://youtu.be/qeJICVwmuHk


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