2018年9月7日号 Vol.333

内田忠男氏・講演会
「明治維新150年、日本と世界は?」
日本近代史、二つの変革(1)

国際ジャーナリストとして第一線で活躍し、現在は名古屋外国語大学・大学院客員教授の内田忠男氏による講演会が、8月29日(水)午後7時からNY日系人会ホールで行われた。当日のニューヨークは、過ごしやすかった前週までの気温とは対照的な華氏98度で、体感温度は100度を超える暑さ。「酷暑の日本からニューヨークに来て、こんなに暑いことに驚きました。私が日本から暑さを持ってきたのではないかな」と挨拶すると、会場は笑いの渦に。歯切れの良いトークに時折ジョークを交えながら、駆け足で近年を振り返った。

■主催:My Event USA, Inc.
■後援:NY日系ライオンズクラブ
■協賛:サッポロビール、北米伊藤園、よみタイム
■協力:IACEトラベル

内田忠男


今年は明治維新から150年。この150年間に日本は、二つの大変革を経験した。一つはむろん、明治維新そのもの。もう一つは1945年、太平洋戦争の敗戦に伴う、日本国有史以来の「占領体験」である。

幕末から明治維新へ
若き「志士たち」の活躍

明治維新とは、長い封建制と鎖国の下にあった日本が西洋文明に開化し、近代化の道を歩むことになった区切りの出来事。その時代を生きた幕末志士は、鎖国と攘夷に揺れた幕末から、明治維新後の国家建設の先駆けとなった。その多くは当初、「尊皇攘夷」というスローガンの下で、異国、特に欧米列強諸国との交わりを嫌い、天皇を中心とした国家を建設しようと江戸幕府に対抗した。やがて幕府の力が弱まると、これを打倒し立憲君主制に基づく近代国家建設に動いた。その過程で活躍したのが志士たちである。

この時代、一般市民 (当時は市民という階級も意識もなかったが) の感情は、1853年にアメリカのペリー提督が東京湾の浦賀沖に来航し、開国を迫った時に詠まれた狂歌「泰平の眠りを覚ますジョーキセン、たった四杯で夜も眠れず」に表象される。「ジョーキセン」とは、ペリーが乗ってきた蒸気船と、京都の宇治で産する高級茶ブランド「上喜撰」を懸け、さらに「蒸気船の闖入で眠れない」と「上喜撰のカフェインで眠れない」とを懸けたもの。このように多くの人々はまだ、徳川250年の深い眠りの中にいた時代に、覚醒していた人々…それが志士たちであった。英訳すれば Patriotsということになろうか。彼らにとっては、中国大陸で猛威を振るっていた列強諸国の植民地攻勢から、国の独立と主権を守るために必要な統治システムを構築することが最大の関心事であった。そのことに命をかけた「救国の志士: Patriots of National Salvation」がいた一方で、外国の新知識に強い関心を抱き、文明開化の先駆けを目指した「知の志士たち:Intellectual Patriots」も存在していた。こうした志士たちに共通するのは、若さだ。若さ故に、古いしきたりに捉われない行動、武家社会の階級を越えて行動する勇気。これは単なる下克上とは違う、自らの信念を堅持し、上役だけでなく、時には自らの生殺与奪の権を預けている藩主にも逆らう身を捨てた勇気があった。彼らの心理の奥底に、野心と情熱はあっても、自分だけの栄達や蓄財を求めるといった私心は微塵もなかった。

幕末志士と言った時に真っ先に思い浮かぶであろう坂本龍馬。彼は維新直前に殺されている=享年31歳。土佐藩(現在の高知県)を脱藩し、海軍と貿易会社、さらには政治行動もする「海援隊」という武家社会では考えられない仕組みを作り出した(元は「亀山社中」という名の組織を改名したもので、武士に限らず町民や農民も受入れた。今風に言えば New Venture というところだろうか)。海援隊による兵器の調達などを通じて、薩摩藩(現在の鹿児島県)と長州藩(現在の山口県)を同盟させ、徳川幕府に対抗する勢力とし、最後の将軍・徳川慶喜に大政奉還を決断させる素地を作るために奔走した。「倒幕と明治維新は、坂本龍馬抜きには達成されなかった」と言われるが、大政奉還から1ヵ月後の近江屋事件で殺されてしまった。大政奉還の直後に、西郷隆盛から「これから何をやるつもりか?」と聞かれた龍馬は「新政府の役人など真っ平ごめんだ。世界の海援隊でもやるかな」と答えたという。 当時、既に貿易商社に育ちつつあった海援隊を経営する中で、「欧米列強に対抗するために新しい海洋国家を作って世界に乗り出す、新国家を守るのは刀でもピストルでもない、万国公法だ、法治国家にならなければ世界から相手にされない」と常に説いていた龍馬。その一方で、「財政基盤が何よりも大事」と痛感しており、昨年初めに発見された新資料によれば、財政通の藩士がいた福井藩へ、その藩士を新政府に差し出すよう求めていた、という。財政の安定した国でなければ法治国家の基礎も揺らぐ、と考えたからに相違ない。その構想力と行動範囲の広さは目を見張るばかりである。

150年後の今、世界はどうだろうか? 中国は南シナ海を勝手に埋め立て軍事基地を造った、ロシアはクリミア半島を武力で併合、どちらも国際法を無視。 今、龍馬が生きていたら「おまんら、ルールは守らんといかんぜよ」と口を尖らせていただろう。重ねて記すが、龍馬が暗殺されたのは、まだ31歳。付け加えれば、龍馬が頼りにした福井藩の藩主・松平春嶽は、土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城とともに「幕末の四賢候」と呼ばれた人物であり、佐幕・倒幕両陣営から頼りにされていた。龍馬とは、私政に代わる公共の政(まつりごと)こそが最善策だという認識で一致していた。「松平」という苗字が示すように有力な譜代大名で、最後の将軍・徳川慶喜を懸命に擁護し続けたが、結果として新政府樹立への歯車を回してしまう役回りを演ずることになった。この春嶽でさえ、維新の時は40歳直前。思想家、教育家として、松下村塾で数多くの志士を育てた吉田松陰は安政の大獄で捕縛され、江戸で刑死=29歳。その門弟だった高杉晋作は、これも維新を見届けることなく肺結核により死去=29歳。高杉晋作は、長州藩が1863年に英仏米蘭の4ヵ国連合艦隊に攻撃され、下関の砲台が占拠された「下関戦争」で、その講和交渉を任された=弱冠24歳(実はこの時期、晋作は士族という身分にこだわらない志願兵を集めた奇兵隊を組織した廉(かど)で蟄居の身にあったが、それを赦免されて駆り出された)。

交渉の席で通訳を務めた伊藤博文が後に自伝に書き残した回想によると、連合国は数多の条件と共に彦島の租借を要求している。晋作は、ほぼ全ての条件を受け入れたが、この領土租借については頑として受け入れず、結局は取り下げさせることに成功した。その前年、清国を旅行した折、1840年から42年の アヘン戦争で香港をイギリスに割譲したのがキッカケで、独・仏・露・ポルトガルなどの欧州列強から領土を削り取られる悲惨な状況下にあるのを見聞きしたことで、 「領土租借=植民地化」に繋がることを鋭く見抜いていたのだ。もしこの要求を受け入れていれば、日本の歴史は大きく変わっていただろう、と伊藤は記している。その伊藤も、後に初代内閣総理大臣として明治新政府の柱になるが、維新の時にいくつだったかと言えば26歳ギリギリ(1週間後に27歳の誕生日)だった。

維新の三傑と称された大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允(たかよし)にしても、維新を迎えた時の年齢は、初代内務卿として新政府のリーダーとなった大久保利通が38歳、戊辰戦争で官軍の総大将、江戸城無血開城の立役者だが、後に新政府と対立して西南戦争を起こし切腹してしまう西郷隆盛でも40歳、木戸孝允( 維新までは桂小五郎、維新後、太政官制度の中で文相、内務相) は35歳…と、若い知性とエネルギー、そして情熱に溢れていた。知の志士の代表と言えば、1万円札に肖像が描かれた福沢諭吉。彼が現在の慶應義塾の元を開いたのは安政5年(1858年)で、まだ23歳。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」の名句で始まる「学問のすゝめ」をはじめ西洋事情、文明論之概略など数多くの書物を書き、時事新報という日刊新聞も発刊。文明開化の時代を先導し、人々の心に平等や自由といった新しい価値観を吹き込んだ知識人・啓蒙家。「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」の言葉でも知られるようにユーモアの感覚も持ち合わせ、独立自尊、権理通義、自由、男女同等など、それまでの日本語の語彙になかった言葉とその概念をいち早く伝えたのも福沢諭吉であった。

こうした若き志士たちの力で動き出した明治時代。日本は、国際社会が驚くほどのスピードで近代化を実現していく。まずは廃藩置県。300余りもあった大名支配の「藩」を、302の「県」に置き換え、18年がかりで現在の形に近い1道3府43県にした(現在1道1都2府43県)。徳川時代の日本人とは、正確には「日本人」ではなく、人々は各藩が支配する大名の「領民」であった。明治新政府が目指したのは国民国家「Nation State」であり、日本人は等しく天皇に奉仕する民でなければならない。そのためには、廃藩置県が不可欠の重要事であったのである。
維新から17年後、現在の形に近い内閣制度が整備され、21年後の1889年には憲法を制定。この憲法は、アジア初の成文憲法=大日本帝国ハ 万世一系ノ天皇コレヲ統治ス=で始まる全76条で、頂点に天皇を据え、国民は全て天皇の支配下に置かれることを明確に規定していた。この点においては現在と懸け離れているが、当時の列強諸国では君主国が大半の時代に、第2章「臣民の権利義務を規定」、第3章「帝国議会」、第4章「国務大臣及び枢密顧問」、第5章「司法」と、3権分立の近代国家としての統治システムを整然と規定している。

当時は現在のように、情報収集の手段として様々なメディアがある訳ではない、むろんコンピューターやインターネットなどがある筈もなく、図書館さえない時代だ。全ては正に手探りであり、調査と学習から始めて僅か数年で、このように整備された憲法を制定した人々の情熱と献身的な努力には、頭が下がるばかりである。

国際社会をさらに驚愕させたのは、維新から26年後に日清戦争、36年後には日露戦争を戦い、しかも勝利したことであろう。当時の清国は老いたりとは言え東洋の大国、ロシアに至っては世界最大の軍事大国。近代化に踏み出して20年か30年の小さな島国が、戦争すること自体、無謀としか映らなかった。国際社会の大勢は「勝てる筈がない」と考えていた。ところが、日本は決定的に勝利する。

第一世界大戦が起きたのは維新から51年後。当時の英国が世界で唯一結んでいた軍事同盟が日英同盟だった。その条規に従い参戦した日本。停戦後の1919年に開かれたベルサイユ講和会議で、日本は戦争に勝った連合国側の5大国の一角に名を連ねていた。なんと、列強を恐れていた日本が、その仲間入りを果たしたのである。

昭和に入って満州事変に始まる一連の戦争、つまり15年戦争が、軍国日本の悪しき野心に発した侵略戦争だったことには異論の余地がない。しかし、日清、日露戦争は、欧米列強の植民地になってはならぬという、維新以来、抱き続けて来た危惧と恐怖心に発した、文字通り自存自衛の戦争だったと、私は考えている。「維新」という大事業を終えてからの近代化と成長の歩みの早さ、その原動力が何であったか、日本人たるもの、キチンとした評価を下すべきだと思う。

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