2022年10月28日号 Vol.433

追悼・仙石紀子さん
日米舞台交流のパイオニア

1988年7月「彗星の使者」のBAM公演のレセプションで

9月30日、日米の舞台芸術交流の礎を築いた演劇プロデューサーの仙石紀子さんが逝去した。83歳だった。

梅若六郎による薪能、淡路人形座など日本の伝統芸能から、劇団夢の遊眠社「彗星の使者(ジークフリート)」(野田秀樹演出)などの現代演劇まで、1980年代から20年以上にわたり、数々の作品をアメリカに紹介した。

「Ninagawaマクベス」(1990年)は、ニューヨークタイムズ紙に「西洋の文学と東洋の演劇技法を融合させ、独創性を生み出した」と激賞された。本人にとっても「最も思い出深い経験のひとつ」だった。

その一方で、オフオフ公演の「フォービドゥン・ブロードウェイ」、コンテンポラリーダンスのトワイラ・サープなどを日本に紹介。Eメールもインターネットもない時代に、舞台芸術を通した日米交流を切り拓いた。



1939年、名古屋生まれ。戦中戦後、ラジオから流れる物語に聴き入ったのが原体験。黎明期の劇団四季で浅利慶太氏のアシスタントを務めたのち、1968年にニューヨークへ。到着した日にブロードウェイを訪れ、NYUで演劇を学びながら前衛劇団リビング・シアターなどが躍動する当時の演劇シーンに魅了されていく。

1990年代、寺山修司など日本の演劇人とゆかりの深いラ・ママ実験劇場が財政難に瀕した際は立て直しに尽力。1993年に同劇場からシルバーベル賞を贈られ、2008年には一戸小枝子舞踊団より文化の架け橋賞を受賞した。

劇場に足繁く通い、観劇後「ビール飲みたい」と茶目っ気たっぷりに周囲を誘うのが常だった。「この感動をたくさんの人たちと共有したい!」と熱く語る一方で、「テーマに時代性が感じられない」と鋭い批評を展開することも多かった。

名プロデューサーは、人生設計や資産運用も周到だった。筆者は何度「個人年金保険に入っておきなさい」と言われたことか。7月頭の入院から3ヵ月、ふたりのご子息に別れを告げる時間をつくり、それでいて介護の苦労をさせることなく、潔く逝ってしまった。

自身の最期までプロデュースした仙石さん。見事な人生だった。(高橋友紀子)


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