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よみタイムVol.127 2009年12月25日号掲載
映画監督 泉悦子さん
「心理学者、原口鶴子の青春」製作して
日本の女性史に大きな足跡

  たった一日だけの上映会だったが、ダウンタウンの独立系映画上映館ミレニアムは人で溢れた。泉悦子監督のドキュメンタリー映画「心理学者 原口鶴子の青春〜100年前のコロンビア大留学生が伝えたかったこと」が、12月6日の日曜日、映画の舞台となったニューヨークで初めて一般公開されたのだ。
 泉監督が企画、プロデュース、脚本、監督、編集とひとり五役をこなした本作品は、07年東京国際女性映画祭、08年あいち国際女性映画祭、09年高崎映画祭などに参加、08年に日本で劇場公開されると邦画・洋画の大作を抜いてイベントガイド誌「ぴあ」で満足度ランキング第3位に選ばれ、08年山路ふみ子映画賞福祉賞を受賞するなど高い評価を受けた。
 上映会当日は席数に限りがあったこともあって、午後3時の開場というのに1時半には、小紙「よみタイム」の切抜きをもった観客が集まった。外は寒く劇場支配人が気を利かせて開場時間前に特別にドアをオープン。100年前にコロンビア大学に留学して心理学の博士号を得ながら29歳で夭折した原口鶴子に対する、NY在住の日本人女性たちの関心の高さが目を引いた。
 会場には鶴子の娘、早百合さんの夫で現コロンビア大学名誉教授の倉西正武さんや鶴子の孫の渡辺福子さんなど、ゆかりの人たちも姿を見せた。上映終了後、泉悦子監督は舞台に立ち原口鶴子自身について、さらに制作に関する観客からの質問 にひとつずつ丁寧に答えていた。

 泉監督は、中学の時に観たハリウッド映画「ベンハー」や「ウエストサイド物語」を見て衝撃を受け、以来映画少女となった。父親の泉君男(いずみきみお)は明治生まれながらジャズのドラム奏者。アメリカの伝説的なドラマー、ジーン・クルーパと後楽園でドラムソロを競演したほどの日本ジャズ界の草分け的存在で70歳まで現役を続けたという。
 そうした家庭環境の中で、子どものころはピアノ、バイオリン、タップダンス、日本舞踊と習い事も数多く体験、小学校にあがる前には母親に手を引かれ児童劇団「若草」に入団、「優秀賞」を手にしたことも。
 早稲田大学を卒業すると記録映画やPR映画を制作する(株)記録映画社に入社、映像の演出を学ぶとともにシナリオ研究所で映画シナリオを学んだ。

 作家性に目覚めたのは98年に、50歳で企業基金を得てニューヨーク大学に2か月映画留学した時だ。「映画作りの基礎を若い人たちと一緒に学ぶうちにハーイ・エツコ!と声がかかるようになり、先生からも作品を高く評価されとても楽しい時間でした。私にもこういうことができるんだと気分はますます高揚していきましたね」と懐かしそうに振り返る。
 06年、初の自主制作映画「ニューヨークで暮らしています。彼女たちがここにいる理由(わけ)」を完成させる。ニューヨークで暮らす日本人女性の生き方考え方を鮮やかに切り取った女性映画だった。
 これまで100本以上の官公庁や企業のPR映画、ビデオの脚本、演出を手がけている。かたわら87年には女性映画ファンで作るシネマジャーナルを創刊、92年には自ら制作会社テス企画を設立して女性の自立や医療の映像ソフトを製作。
 「PR映画を現在も含め多数手がけましたけど、PR映画だから当然ですがクライアントの意向が優先、自分は出来るだけ抑えなければならなかったんですね」。結婚を機に一時現場から離れたが、主婦の立場で時々来る構成などの仕事を続けていた。現場復帰したのは40歳直前、離婚が契機となった。「すでにフィルムの時代からビデオの時代に変わっていて一から学び直しましたね」と話す。

 「原口鶴子」との出会いは、1作目のニューヨーク・ロケに出発する直前、偶然、原口鶴子の孫と出会い鶴子の存在を知る。話しを聞いて驚愕した。「100年前にこんな素晴らしい女性がニューヨークにいたのか」。
 何とか、ドキュメンタリー映画に仕上げたいと思った。だが、コロンビア大学や母校である日本女子大など大きな組織への取材は欠かせず「ちょっと無理かな」とあきらめかけたこともあったという。さらに最大の障害は制作資金だった。
 「夜眠れないこともありましたよ」。苦闘の中、3回目のニューヨーク・ロケの直前、申請していた文化庁の「芸術文化振興基金」から連絡が入り、助成金内定のニュースが入った。「すぐもらえれば嬉しいんだけど、助成金が出るのは出来上がったあとだったんです」と笑う。
 「原口鶴子」については、鶴子自身の著作「楽しき思い出」や荻野いずみの「原口鶴子・女性心理学者の先駆」があるが一般的に鶴子の存在を知らしめるには至らなかった。今回多くの人の心の中に蘇った新たな原口鶴子像、泉悦子監督の功績は日本の女性史に大きな足跡を残したと言えよう。
 「大変な思いも多かったけど、幸い良い評価をいただき、ああ、私、間違ってなかったと今は素直に嬉しい」とかつての映画少女は笑い声を弾ませた。(塩田眞実記者)


2月にDVD発売が予定されている。テス企画。
www.sepia.dti.ne.jp/tess/tess