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 よみタイムについて
 
 
よみタイムVol.130 2010年2月12日号掲載

「本当の自分知って欲しかった」と話す大根田氏 (ウォルドルフ・アストリア・ホテルで)
実業家 大根田勝美さん(72歳)
角川書店から自伝出版
若者に夢と希望与えたかった
資料は自分の記憶と丹念なメモ
引退後「家政夫」に華麗なる変身

アメリカに来たころの大根田氏、夢と希望に満ちあふれていた

 タイトルが全てを物語っている。
 「中卒の組立工、NYの億万長者になる。」。
 貧しくて、みそ汁1杯で1日を過したこともある少年時代。周囲から貧しさゆえに「いじめ」にもあった。
 そんな反骨精神が、根っからの「負けず嫌い」に火をつけ、次から次へと押し寄せる荒波を乗り越え、巨万の富を手にする。まさに「夢を叶えた痛快な大逆転人生」なのである。
 表紙は、ピザにかぶりついている著者。「世の中にこんなおいしいものがあったのか」と見るもの、聞くもの全てが新鮮に感じた20代半ばのころの写真だ。
 これまで、何度も「自伝出版」の話が持ち上がっていた。ことごとく断ってきたのは、メディアに対する不信感からだった。「どんなに誠実にインタビューに答えても、全く違ったニュアンスで伝わったり、話を誇張されて書かれたこともありましたので」という。また、友人たちからのやっかみなどもあったそうだ。
 だが、今回は違っていた。「よし、本を出版して、本当の自分を知ってもらい、若い人たちに少しでも夢と希望を持ってもらえれば」と感じた。
 さらに理由があった。02年に出版された水村美苗(みずむら・みなえ)が読売文学賞を受賞した「本格小説」(新潮社刊)の主人公、東太郎はオリンパスの駐在員から独立を果たすまでの大根田氏の人生そのものだった。ところが、小説の中の東太郎は「日本人の母」と「中国人の父」から生まれた人物とされており、小説を読んだ知人から「日本人ではなかったのか」といわれたこともあった。
 そうした「誤解」を解く意味でも「一度、自分史を書いて出版してみよう」と角川書店からの熱意に応じた。
 決まったらとことんやるのが「大根田流」である。
 「こんなに真剣に机に向った記憶がない」というくらい毎日、キーボードを叩き付けた。
 資料は、自分の記憶と丹念につけていたメモである。しかし、不思議と書けば書くほど記憶が甦ってきた。小学校のころのことも、克明に思い出してきて、身震いした。
 「単なるメモがこんなに役に立つなんてね」とニガ笑いする。
 231ページにわたるBー6版の本は一気に読める。「億万長者の教え」として@からSまで分かれ、懇切丁寧に「実録ノウハウ」が刻まれている。
 東京で床屋の長男として生まれ、長野県伊那に疎開。父親はバリカン持って農家を回ったが、ほとんど仕事はなかった。家族6人はろくに食べるものもなかった。学校では「東京っぺ」といじめられたが、休もうとは思わなかった。
 中学を卒業すると地元のオリンパス伊那工場に組立工として雇われ、夜は定時制高校に通う。そのうち、伊那工場から東京に転勤になり修理工に配属される。
 この時、独学で英語を学び、海外駐在の夢を獲得する。東京オリンピックのあった1964年6月1日にニューヨーク駐在の内辞を受けた。
 「辞令 職手 大根田勝美 輸出部ニューヨーク駐在事務所勤務を命じる 昭和39年10月1日 
オリンパス光学工業株式会社」
 たった1枚の紙切れだったが、今でも宝物のように大事に持っている。
 内視鏡の全身であるガストロカメラの技術指導が主な仕事だったが、当時の所長の計らいで営業に回された。この所長こそ「本格小説」を書いた水村美苗の父親だった。時代はガストロカメラからファイバースコープに代わる。オリンパスは光ファイバーをガストロカメラに組み込んだ内視鏡を世界ではじめて発売、セールスの仕事は休む間もなかった。
 しかし、「中卒の社員は出世出来ない」事実を目の当たりに見て、69年に退社し、内視鏡などの医療器機の販売を行う。 
 75年にオリンパスの競争相手の町田と組み、マチダ・エンドスコープを販売する「マチダ・アメリカ・インク」を立ち上げ、さらに旭ペンタックスと組んで会社を大きくする。さらに、アメリカ人ビジネスマンとベンチャービジネスに乗り出し、億万長者への道をまっしぐらに進んだ。この間、生涯の友となる実業家、ルー・ペルー氏や内視鏡の先駆者、新谷弘実医師との出会いが成功を助けた。
 68歳の時、ビジネスから手を引いた。妻の淑(すみ)さんが体調を崩したからだ。「これからは妻を助けよう」と決意した。
 「企業戦士」から3度の食事の支度を担当する「家政夫」へ華麗なる変身である。
 何しろ料理は大好きで「台所仕事は、苦にはならない」。新年には21種類ものお節料理に挑戦した。プロでも太刀打ち出来ないほどの腕前である。
 将来は「大根田寿司の店でもだしますかね」と笑った。
(吉澤信政記者)