よみタイムVol.55 2006年12月22日号掲載

  T.I.C. グループ・社長 八木 秀峰

時代を先取りした放浪の旅路
日本食ブームの先駆けとなった『ボン』と呼ばれた男がいた



六本木で露店商をやっていた頃
 ニューヨークには今、800件とも1000件ともいわれるほど日本食レストランが乱立している。アメリカ人の食生活に完全に入り込むほどのブームになっている。その先駆けとなったひとりに「ボン」と呼ばれる八木秀峰という男がいる。小さい時からアメリカにあこがれ、アメリカ社会で生きていくことを夢見てアメリカに渡った。波乱万丈の放浪人生。だが、「時代を先取り」して貧民街だったイースト・ビレッジに「日本街」をつくった。彼は、のちに日本から進出してくる若者に多くの夢を与えた。

イーストビレッジを
日本人の街に変ぼう


 セント・マークス街を中心としたイーストビレッジは、80年代には、麻薬取引とホームレスの聖地と呼ばれた。特にアベニューA、アベニューB、アベニューC、アベニューDは、最も危険なエリアとして知られていた。それぞれの頭文字をとってAはAlert(注意)、BはBeware(用心)、CはCaution(警戒)、そしてDはDanger(危険)とささやかれていた。
 20年後の今は、トレンディな若者の街に変ぼうした。9丁目の2番街と3番街の間に日本食レストラン「波崎」、「蕎麦屋」、ティーハウス「茶庵」、近くには「しゃぶ辰」、「来々軒」などがある。全て、八木が経営している店である。今現在、9店舗持ち、この他携帯電話会社「ニッポン・テレコム」、TOTOのウオッシュレットを扱う会社、ワインを販売する「エンパイア・ステート・ワイン&ビアー」も傘下にある。
 「何か新しいことをしないと」と笑う。年齢に関係なく常に「時代の先取り」している。

アメリカへの第一歩

 「ボン」こと八木は1948年10月20日5人兄弟の4番目として茨城県の波崎町で生まれた。利根川を挟んで向こう岸に千葉県銚子市がある。小さい時からかわいいという意味の「ボンボン」と呼ばれ、いつしか「ボン」が彼のニックネームになった。
 中学生のころから英語が好きで「将来はアメリカで働きたい」夢をもっていた。中学卒業後1年間「少年自衛隊」に入隊するが、その後1年遅れで千葉県の銚子高校に入学。ここで、生涯の盟友となるレストラン「イースト」チェーンのオーナー、若山和夫と出会う。2人とも当時からアメリカをを目指していた。
 八木は高校卒業後、英語科のある東京の獨協大学英語科に入学する予定だった。「絶対合格する」と万全の態勢で臨んだが、わずか10分遅刻して受験できなかった。「あれだけ勉強したのに」と悔やんだがあとの祭り。受験場の門はかたく閉ざされていた。

八百屋をはじめた時の店
 だが、八木の頭の中はすぐ切り替わった。「よし、大学行って遠回りするより、その分早くアメリカに行ける」と考えた。
 アメリカ行きの準備をするため英語を学ばなければならない。八木は友人の紹介で赤坂にある米軍用のホテル「山王ホテル」に就職した。主な仕事はウェイターとあっては英語の勉強にもならない。
 そのあと見つけた仕事は座間キャンプで将校を乗せたハイヤーの運転手。ここで、黒人の二等兵、ロニー・スモールと出会った。不思議とウマがあった。2人は飲み歩くなどして親しくなった。八木が自分の夢を語るとスモールは「それならフィラデルフィアにある我が家に行くといい。両親に手紙を書いておくよ」といってくれた。
 スモールの実家の住所が書かれた、たった1枚の紙切れと500ドルの現金を持ってアメリカに渡った。68年10月20日、20歳の誕生日だった。

放浪の旅路

 最初にサンフランシスコに着き、そこからグレーハウンドバスで大陸横断だ。気合いを入れてアメリカに来たものの、フィラデルフィアに向うバスの中ではホームシックでうっすらと目に涙を浮かべた。
 「これからどうやって生きていくのだろう」「日本に戻ろうかな」など頭の中は色んな事がよぎった。
 そんな不安もスモールの家族に会って吹っ飛んだ。「よく、遠い日本から来てくれたね。いつまででもここにいていいんだよ」と優しい言葉をかけられた。だが、スモールの実家はフィラデルフィア市内の黒人街、ジャーマンタウン。名前のように昔はドイツ人が多かったが今は大半が黒人が住んでいる。小さな部屋を与えられたが、訛りの強い黒人英語が聞き取れない。家族とコミニュケーションするのが大変だった。それでも、スモールの家族は親切に、世話をやいてくれた。また、ジャーマンタウンでは珍しくロッキーと呼ばれるイタリア人が八木の面倒を見てくれた。
 ロッキーが最初の仕事として与えてくれたのはガソリンスタンドの店員。その次ぎは「ハーフウエー・ハウス」(社会復帰訓練所)というバーだった。朝から酒を飲みに来る日雇い労務者風の黒人ばかりだった。八木はキッチンに入り、皿洗いに明け暮れた。真面目に仕事をする彼に、ロッキーは信頼をおいた。
 八木は1年半後に渡米してきた若山と出会う。2人はこの「ハーフウエー・ハウス」で一緒に働く事になった。それもつかの間、若山は日本人が多く住むサンフランシスコでビジネスをやる、と帰って行った。八木も「ハーフウエー・ハウス」からロッキーの新しい店「シップンステーキ」という小さなレストランで働き出した。その後アトランタ、マイアミでも働いたが「居場所がない」と友人4人とヨーロッパに放浪の旅に出る。
 ドイツから車でインドまで4か月かかって旅をした。このあと日本に戻り六本木の露天でアクセサリーの店を出し、1年半近く働き、十分お金をためた。
 

初めてレストラン「Mr. TERIYAKI」をマーサズビニヤーズ島にオープン。後列右が八木。前列右端が若山
自分の店を作る

 ある時「アメリカで焼き鳥屋をやると儲けられるかも知れない」と友人の紹介でボストンのマーサズビニヤーズ島で「ミスター・テリヤキ」と始めた。この島はケネディー家の別荘のあるところで知られており、裕福な人たちが暮らしていた。若山を呼び二人三脚でのビジネスがスタートした。77年夏のことだった。出張パーティーや鉄板焼もやったが、ビジネスはうまくいかなかった。「これ以上やってもうまくいかない」と思った時、若山が「ニューヨークに行って八百屋を始めよう」と切り出した。
 いよいよニューヨークに渡り、八木の新しいスタートが切り開かれようとした。

八百屋でスタート
破格値で注文殺到


 ふたりは1台のトラックを買って八百屋業「YAOーQ」を始めた。場所は8丁目の6番街。店の3階にアパートを借りての再出発だった。近くのレストランなどに飛び込みで入って、タマネギやキャベツ、キュウリなどの野菜の注文を受ける。値段と品質さえよければ、注文はとれる。2人はブロンクスのハンツポイントで新鮮な野菜を仕入れて卸していた。
 他の業者より値段が半分以下ということもあって、注文が殺到した。逆に現金商売のため、仕入れ金が不足して、注文を断るほどだった。こんな生活が数年続いたあと、「イーストビレッジに本格的な日本食レストランを出したい」と思うようになった。貧しい芸術家や浮浪者がたむろする街だが、愛着を感じ、いつか「日本の街」を作りたいとも考えていた。
 84年6月、9丁目の2番街と3番街の間に待望の本格的日本食レストラン「波崎(HASAKI)」がオープンした。「ミッドタウンで出している日本食をイーストビレッジで」と素材を厳選し、職人も日本から連れてきた。最初は「値段が高い」「イーストビレッジに合わない」などと言われてきたが、徐々に客もついてきた。
 時代とともに、イーストビレッジが様変わりしてきた。若い日本人が「アパートが安い」などの理由で住みつくようになった。芸術家たちもロフトを借りてシェアしている。「波崎」に次いで「銚子」を3年後の87年にオープン。92年にはしゃぶしゃぶ専門の店「しゃぶ辰」、93年には数多くの日本酒を扱う「デシベル」、さらにミッドタウンにも進出。
 イーストサイド43丁目の高層ビルの地下に200種類の日本酒を取り扱う本格的な酒レストラン「酒蔵」を96年に開店した。酒蔵をイメージしたトイレが話題を呼んだ。
 常に時代を先取りして物事を考え、実行して行く行動力は、少年時代から培っていた。大学をあっさりあきらめ、アメリカに渡り、有言実行してきたのだ。
 八木の思惑通り、日本食、日本酒がアメリカ人の間で人気になる。すると、今度は「寿司の次ぎはそばの時代」と98年「蕎麦屋」を開く。そば粉は長野県安曇野から仕入れ、客が見えるところに作業台をつくり、そばを打っているところも見える。ニューヨーク・タイムス紙などでそばが健康的な食事などと書かれると、どっとアメリカ人が押し寄せてきた。今では客の大半がアメリカ人だ。
 八木が夢としてきた「日本人街」作りも、イーストビレッジが「ジャパンタウン」と言われるほど賑わっている。若い人たちを集めて「日本祭り」もやった。実家の波崎町から贈られた神輿をかついで、ビレッジを錬り歩く。
 「為せば成る 
 為さねば成らぬ何事も
 成らぬは人の為さぬ
 なりけり」
 「踏まれても 根強く忍べ 道芝の いつしか花咲く 春もくるらん」
 八木はいつも心の中で唱えている教訓だ。
 01年9月11日の同時多発テロで2749人が犠牲になっている。八木はその年の12月31日をもって2749日間の禁酒を始めた。約7年半だからあと2年弱。
 「我 後悔せず」とやさしく笑った。