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 よみタイムについて
   
よみタイムVol.73 2007年9月21日号掲載

 看護婦 田中希代子

10年頑張り念願のナースに
自他共に認めるチャレンジャー

 西58丁目と10番街にあるルーズベルト病院。脳外科のICU(集中治療室)には、交通事故で頭部を強打し、血だらけで運び込まれる意識不明の重傷患者や、最近多い30、40代の脳出血患者などが多く運びこまれる。
 田中さんは、今年6月から昼間の勤務に変更になった。
 勤務時間は、午前7時半から午後7時半。朝5時過ぎに起床、6時半にはクイーンズの自宅を出る。7時過ぎに病院に着いて、カフェテリアで持参の朝食。夜勤のナースから申し送りを受ける。申し送りの前には必ず患者の様子を確認、意識の有無、人工呼吸器が付いているかどうかなどを見ておくと、申し送りを理解するのに役立つ。その前後には医師からの支持、薬、その日の予定を確認。そこから長い一日が始まる。
 ルーズベルト病院は、正式名称をセント・ルークス/ルーズベルト病院という。アップタウンのセント・ルークス病院は主に心臓関係、田中さんが勤務するルーズベルト病院は脳外科で知られている。生命の危険にさらされた重態患者が多く、ICU部門は絶えず慌しい雰囲気につつまれ、医師の指示も一刻を争うものが多い。
 容態が急変した患者への緊急投薬時は、薬剤師に的確に支持しなければならない。聞いたことがない長い名前の薬を言われて、正確を期するために復唱していると、医師から「Right Now !」と罵声が飛ぶ。緊張が走り怒鳴りあうこともしばしばだ。患者の命を救うために起こる、重く緊張した空気。
    ◇ 
 子どものころから看護婦の仕事に憧れを持っていた。「入院していた母を病院に何度か見舞ったことが、原体験となっているのかも」と笑う。「おままごと」をすれば、怪我もしてない腕に包帯を巻いて遊ぶような少女だった。高2の時に決めた進路はやっぱり看護婦。受験勉強で苦労しながら港区の広尾看護学校に入学。
 ところが苦労して看護学生になったものの、ついつい楽しさが先立ち「勉強よりも夜遊びに浮かれ歩く日が多くなった」という。ポッカリとした「虚しさ」を感じていたある日、学校で見つけた留学パンフレット。アメリカへの興味はあまりなかったが「いい思い出になるかも」と母親に見せると、結婚前に2年の留学経験を持つ母が「行ってみたら」と強く背中を押してくれた。     
    ◇
 看護専門学校2年生の夏休み、コロラド州デンバーへの3週間交換体験留学した。ホームステイして、午前中は英語の授業、それからアメリカの看護について勉強。朝起きて学校へ行って新しいことを学び、帰ってからは宿題を片付けて寝る。こんな当たり前のことが清々しかった。
 帰国後「本格的に留学したい」と考えた。しかし周囲からは「とりあえず看護学校を卒業しなさい」と説得される。
 国家試験を猛勉強の末に無事合格。「嬉しかったですねぇ。子どもの頃からの夢がかなったんですから」。とりあえず日本で病院に就職。最初、患者から「看護婦さん」と呼ばれるのが嬉しくて楽しかったという。間もなく脳外科に配属された。しかしプリセプター(指導係)との人間関係がうまくいかず、再び「あの大好きなアメリカに行こう」と心に決めた。
   ◇
 滞在は1年のつもりで96年にニューヨークへ来た。語学学校に通ったり飲食店でアルバイトをしていたが、デンバーに留学したことを思い返した。「アメリカで看護婦の資格を」と再び夢が膨らみ始めた。
 しかし手に入れた試験問題の難しさに驚いた。とりあえずコミュニティカレッジを選択。看護学をとるが、実習の空きがなく、ウェイティングに。しかし、このまま待っていたら学生ビザが切れてしまう。「看護の資格だけ先に取っておこう」と考えたが、ルームメートから「学位だけは取っておいた方がいい」とアドバイスを受け、リベラルアートに変更した。

 ルーズベルト病院への就職は昨年の5月。やっと手に入れたアメリカの医療現場でのポストだったが、予想通りの厳しいものだった。日本人は一人だけ。英語の壁、新たなプリセプターとの関係、最初はオロオロするばかりで、「あの子は使いものにならない」と匙を投げられそうにもなった。一般病棟に移されそうになったこともある。
 「ベッドサイドの患者のケアはいいが、英語での記録にちょっと問題がある」と指摘されたことも。脳外科のICUでは、1時間に一回患者の状態の正確な記録を取らなけばならない。ひどい時は15分おきだ。試用期間の5か月の間、必死に働いた。「ここで頑張らないと、私のアメリカ生活は始まらない」と思った。
 「私、多分チャレンジャーなんです。難しい立場に立たされると、立ち向かいたくなるんです。負けず嫌いなんでしょうね」。毎日、立ちっ放しで、動き回っている。
 自分の時間には、自然やきれいなものに触れていたいという。「今度生まれてきたらブロードウェーのスターになりたいと思ってるんです」とはにかんで笑った。
(塩田眞実記者)