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よみタイムVol.89 2008年5月16日号掲載

やきとり大将  溝上健治

アメリカ人に広めた焼き鳥
活気ある大声で評判を呼ぶ

 頭に鉢巻きを巻いて、相撲取りのように丸々太っている焼き鳥職人がいた。ある時、威勢良く焼き鳥を焼いていると、カウンター越しに、ひとりの中年男がからんできた。
 「名前は何っていうんだ!」。
 「ケンジです」
 「苗字は!」
 「ミゾガミです」
 「何!。ミゾガミ・ケンジだと!。俺と一字違いじゃないか。お前、生意気だぞ!」というと、酒に酔った男は、鉢巻きをはずさせ、引き裂いてしまった。
 「何するんだ」とあわや大げんかになるところだった。
 この中年男は、戦後初の芥川賞作家として話題になった中上健次である。彼は92年にがんで亡くなっている。
 「懐かしい思い出ですね。まだ、ぼくも若かったし、突然、喧嘩を売られてびっくりしました」。87年に映画化された中上健次の作品「火まつり」の試写会がジャパンソサエティーで行われた時だ。
 当時、44丁目の日本食レストラン「やきとりイースト」で働いていた。「夜遅くスタッフの皆さんで来て、カウンターで食べて飲んでいたんです。よく覚えてますよ」。
 今でこそ、焼き鳥はニューヨークで人気の日本食メニューとなっているが、元祖は「やきとりイースト」だった。

 子どものころから食欲旺盛だった。熊本県芦北の中学校を卒業すると東京に出て水道の管財関係の会社に就職した。
 よく食べるので少ない給料のほとんどは食費に消えていった。「お腹いっぱいめしが食べられるのならレストランで働くのがいい」と叔父の紹介で福岡の「やきとり本陣」に就職した。
 福岡で7店舗のチェーン店を持っていた。「一生懸命頑張れば店を任す」といわれ23歳の時、念願叶って店長になった。数年は順風満帆だった。ある時、一番信頼している本店の部長が辞任したことがきっかけで店を辞めた。
 その後、仲間3人で「3人で3つの店を持とう」と「やきとり番屋」を始めた。銀行などから借りた借金も数年で返すなど、福岡でも人気の店だった。ところが、仲間のひとりが「沖縄で店を出す」と抜けた。
 そんな時「ニューヨークで日本食レストランを出したい」という若山和夫さんに友人の紹介で会った。若山さんは現在ニューヨークで「イーストチェーン」など手広くレストランビジネスを展開している人だ。
 「ニューヨークで100店舗作りたいっていうんです。すごいエネルギッシュな人だなぁと思いました」。外国にあこがれた時期でもあり、若山さんの誘いでニューヨークへ行ってみようと考えた。両親は反対したものの祖父に相談すると「若いうちはどんどん挑戦しろ。行ってこいと両親を説得してくれました」とあこがれの街ニューヨークにやってきた。

 83年、独立記念日の翌日の7月5日だった。アッパーイーストにその店はあったが、イタリアンレストランを改装してこれから作るところだった。イーストビレッジ9丁目の寮に泊まりながら改装工事を手伝った。水道の管財仕事の経験が役立った。
 翌年、日本食レストラン「イースト1号店」がオープンした。若山さんはそのあと44丁目にニューヨークの焼き鳥店の原点となる「やきとりイースト」をオープン。当然、「焼き鳥職人」に声がかかった。
 「よし、アメリカ人に焼き鳥を広めてやろう」と日本で培ったノウハウを生かした。最初は「これは何だ」といわれ「日本のシシカバブと説明しましたよ」と笑う。
 「いらっしゃーい」という活気ある声は、日本の焼き鳥屋スタイルだ。大きな声は、アメリカ人もびっくりするほどで評判を呼んだ。
 10年いた「イースト」から「暖簾分け」する形で、96年1月3日大雪の日、9丁目に「やきとり大将」をオープン、02年8月8日にはすぐ近くに2号店も出した。
 ニューヨークに来て25年の月日が経った。「好きなことを好きなように生きたい」が人生哲学だ。
 まだ52歳。「わからないけど、次ぎのアイディアはありますよ」。
 「焼き鳥職人」の目は輝いた。
(吉澤信政記者)