空から大地を激しく打ち付ける一直線の雨のように、鍵盤を叩く指。まっすぐに延びる無数のピアノ線を通り一音一音が放たれる。
何百年も前の作曲家が音楽に込めた思いを観客に伝える。それがピアニスト、アリス=紗良・オットの天から授かったライフワークだ。
ドイツ人の父と日本人の母を持つアリスはミュンヘンに生まれた。3歳の時、母に連れられて見たコンサートで、聴衆を魅了するピアニストに衝撃を受けたアリスは、子供心にも将来の自分の姿を重ねる。
「音楽の初恋はバッハでした」
最初の3年間、アリスがひたすら練習したのは、ハンガリーのピアノ講師の薦めもあり、バッハのインベンションだった。
「バッハを弾き始めてしまうと、他のジャンルへの転向は難しいですよ」と笑う。ポップスもジャズもたしなむが、演奏家としてはクラシックで生きることを早くから決めていた。
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国籍も文化も異なる両親を持つが故、アイデンティティー・クライシスを経験してもおかしくはなかったが、ピアノが国際人としての人間形成を助けた。
「音楽をやっているからこそ、どこへ行っても肌や人種の違いで差別されることなく、温かく迎えてもらえました」
アリスは音楽を通して人に『感謝する気持ち』を学ぶ。
「私たちアーティストはスポットライトを浴びますが、舞台の裏にはステージを支えてくれる人たちがたくさんいます。そういう方たちのことを決して忘れてはいけないと思いますし、彼らなくして成功はあり得ません」
アリスは続ける。
「私たちが天から授かったギフトは『学ぶ力』です。自分が一番だと思った瞬間、その努力を怠ってしまう。私は音楽家として毎日、新しいことを学んでいかなければいけない立場なので、感謝の気持ちをとても大切にしています」
そんな気持ちはピアノに対しても向けられる。世界中をコンサートでまわるが、会場によっては状態が良くないピアノがある。そんな時でもプロならベストを尽くすのは極自然のことだが、楽器の良い部分を見つけ、磨いて輝かせてあげるのも仕事だと言う。
「楽器にも魂があります。無下に扱えば、良い音を出してくれません」
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「もう26歳になりましたし、今後の10年が大切だと思っています。外面より内面を磨いていかないと。20年後も人に幸せを与えられるピアニストでいることが目標なのです」
アリスは子供の頃に聞いた、4年前に他界した日本の祖母の言葉を今でも覚えている。
「毎朝起きたら自分に『幸せかどうか』と質問するのよ。もし、そうじゃなければ人生を変えるの。だって自分が幸せじゃなければ、他の人を幸せにすることもできないでしょう?」
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そのアリスが11月30日、3度目になるというニューヨークにやってくる。今回のプログラムで、彼女が生命力を吹き込む二人の偉大なる作曲家はベートーベンとリスト。
「シェークスピアをご存知なら『テンペスト』は馴染み深いと思いますが、プロスペローの世界や魔法の世界が、短いけれど、とても美しく描かれたソナタ。そして、ピアノのパガニーニになろうとしたリストが、当時なかったテクニックを開発するまでになった革命的なエチュード。この美しいソナタと活力ある練習曲のコントラストをお楽しみ頂けたらと思います」
アリス=紗良・オットのピアノを通して、ベートーベンやリストとの対話を楽しんでほしい。
(河野洋)
Alice Sara Ott
■11月30日(日)11:00am
■会場:Walter Reade Theater
165 W. 65th St.
■Tel: 212-875-5600
■$22
■lc.lincolncenter.org |