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よみタイムVol.196 2012年12月21日発行号

 [其の25]

展示しきれない「前衛」たちの残骸。
another story「Tokyo 1955–1970: A New Avant-Garde」

飯村隆彦編・映画「フィルム・アンデパンダン」(1964)より
飯村隆彦「マイ ドキュメンタリー」(左上)、赤瀬川源平「ホモロジー」(左右)
大林宣彦「コンプレックス」(左下)、刀根康尚「2880K=120"」(右下)

現在、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催されている「東京1955〜1970:新しい前衛」に紹介されている作家たちは、ほとんどが焼け跡育ちで、60年代に若者だった戦後の第一世代。新憲法のもとで日本の伝統に反逆し、すさまじいエネルギーでゼロから新しいアートを創り始めた。
 当時は、「今」を創ることが大事だった。後に、その「残骸」が、MoMAに展示されると思った人は、ほとんどいなかったろう。
 展示されていない、記録されていない日本の前衛のさまざまなエピソードはたくさんあった。

なんでも来いの
読売アンパン

 1953年から10年間続いた、誰でも無審査で出品できる読売アンパン(アンデパンダン)が、作家の表現の自由をエスカレートさせた。
 芸大の優等生たちも伝統を拒否して教室を出、がらくただらけの焼け跡からスケールの大きい独自の発想を広げていった。傷をつけた廃材、ものを積み上げただけの作品、ついにはしみのついた敷き布団まで作品として並ぶようになって、自由な表現は極限まで広がり、前衛というカテゴリーを充実させていった。

ギュウちゃんの
アクション・ペインティング

 詩人、画家、ダンサー、ガイジンたちが出入りする新宿2丁目の深夜ジャズ喫茶「キーヨ」。モヒカン刈りのヘアスタイルで、ギュウちゃんこと篠原有司男も、ここの常連だった。
 朝の5時に追い出されるまで、彼らはここで過ごした。何をするのでもなく、いるだけで何かを共有できる空間。真冬だというのにシャツ(Tシャツという言葉はなかった)1枚の姿でやってくる。
 「あしたさぁ〜、家でアクション・ペンティングやるからさぁ〜、来る?」
 翌日、カメラのバッグを担いだ藤倉明治さんと荻窪のギュウちゃんの家に行く。自宅の板張りの外壁の前に、バケツ2杯の白いペンキが置いてある。ギュウちゃんは竹ぼうきのようなものを持ってきて、「いい、じゃあ、始めるよ」と言うなり、ほうきに白ペンキをたっぷり吸い込ませて、それを振り 上げ、全身で壁にペンキを塗り始めた。ほうきの跡が壁につき、そこからだらだらと幾筋もペンキが下に流れる。
 藤倉さんは、夢中でシャッターを切った。


飯村隆彦作品「土方巽の舞踏」(1963/2007)より

オノ・ヨーコ「Sky Piece For Jesus Christ」(1965)

ナムジュン・パイク「One For Violin」(1962)

内科画廊に詰まった
前衛のエネルギー

 新橋の内科画廊は、狭いオフィスほどのスペースだったと思うが、ここは前衛アートのメッカだった。
 オノ・ヨーコから仲間のアーティストたちに知らせがいく。
 「明日の朝、5時に内科画廊の屋上でイベントがあります」
 翌朝、一番電車でも間に合わないので、深夜喫茶などで夜明かしして、内科画廊に行く。屋上にヨーコがいて、来た人たちをぐるりと輪を作って並ばせ、「空の販売」を始める。
 白みかけた空を指差して、「あなたには、ここの空」といって、指で空の一画を指し示す。そして、みんな、なけなしの中からいくらか払ったと思う。
 空のかけらを少しずつ買って、幸せだったのではなかろうか。

 久保田成子は、何日も前から、「新聞紙を捨てないで、私にください」と言って、膨大な新聞紙を全部丸めて、内科画廊の狭い空間に敷き、その紙の山の上で参加者を自由に行動させた。ふわふわの紙の山の上で、参加者のパーティーが始まった。
 忍者のように身の軽い、しなやかな動きをする風倉匠は、天井を猫のように逆さに歩き、これには、みんな度肝をぬかれた。

 電車に一緒に乗り合わせた横尾忠則が、「どこへ行くの?」と訊くので、内科画廊へギュウちゃんの展覧会のオープニング、と答えた。
 「ぼく、篠原さんのファンなんだけど、会ったことないんだ」
 「じゃ、いっしょに行かない? 紹介する」
 画廊はぎゅうぎゅうの超満員で、入れないほどだった。やっとギュウちゃんを捕まえて横尾さんを紹介しようとしても、方々から声がかかって話せなかった。
 その後、この二人の共同制作の作品展が開かれた。

前衛の檜舞台
草月アートセンター

 赤坂にあるこのすばらしいホールは、前衛パフォーマーたちにとっての檜舞台だった。
 小杉武久の音のない演奏、高橋悠治の難解なピアノ演奏、土方巽の暗黒舞踏、数えきれない前衛の舞台芸術がここで展開された。
 ジョン・ケージが来日した際にもここで演奏がおこなわれたし、ナムジュン・パイクのピアノ破壊の演奏は、日本の作曲家ばかりでなく、前衛を志すあらゆるアーティストを魅了した。のちに、ニューヨークでパイクと結婚する久保田成子の当時のアパートの部屋の壁に、この時の彼の写真入り新聞記事の切り 抜きが貼られていたのを、今でも憶えている。
 前衛映画の上映もよく行われた。69年、アメリカンニューシネマの上映会が、美共闘の殴り込みで中止になった。60年代前衛芸術の幕切れ、70年代政治の季節の幕開けだった。

常識を壊した
ハイレッドセンター

 ゲリラ的演奏、パフォーマンス、オブジェ
ハイレッドセンターのグループを結成した高松次郎、中西夏之、赤瀬川原平は、町の清掃をしたり、警察の犯人記録のように人々の記録をしたりして、社会風刺のイベントをおこなった。
 こんな作品は、「絵描きは絵を描くもの」としか思っていなかった人たちを、混乱させたかもしれない。
 しかし、私たちは面白がって、会場の帝国ホテルにでかけた。
 その後、千円札をコピーした赤瀬川にとって、「コピーするのは自由な表現手段」だったのだが、警察は偽札作りだと断定して裁判沙汰になり、クリアするまでに何年もかかった。
 前衛アーティストたちは一致して赤瀬川を支援した。表現の自由を守れ!
 
音楽ではない
音のコンサート

 真っ黒いビニールの袋の中にすっぽり入って袋の口をしめ、中で身動きし、時々袋の口をあけて指、手先、腕などを出すことを繰り返す。1時間以上、あるいは一晩中、それを繰り返す。音はないが、これは室内楽の演奏なのだった。
 聴衆は袋の周りにすわって、袋の動きを見ている。袋はときに、周辺に移動して動いたりした。作家は、風倉匠だったか、オノ・ヨーコだったか。
 小杉や刀根康尚などの作曲家たちは、「20世紀音楽」というグループを作り、こうしたゲリラ的スタイルで、自由な演奏を繰り返していた。聴衆がいようといまいと、ハプニングと演奏の間のような自由な表現と音の表現を何時間でも続けていた。
 小杉のヴァイオリン演奏は、スタイルも音色もまるでノコギリをひいているように素朴で、それが人をひきつけてやまなかった。小杉は、タージマハール旅行団という4人ほどのグループを作り、ヨーロッパ経由で演奏旅行をしながら、インドのタージマハールへ行くはずだった。ほんとに行き着いたかどうか知らない。
 しかし、このグループの無限に広がるサウンドを聴いていると、全身が音に溶け込むようだった。 寒い大晦日の夜、由比ケ浜の海岸で、空がうっすら明らむまで演奏した時の感動は忘れない。
 
フィルム・アンデパンダンの
大上映会

 64年、改築直後の紀伊國屋の大ホールで、ブリュッセル実験映画祭で受賞したばかりの映画作家集団、飯村隆彦、大林宣彦、ドナルド・リチーの企画で「フィルム・アンデパンダン」の大上映会が開かれた。ジャンルを越えて、前衛アーティスト20人が8ミリまたは16ミリで3分の映画を制作、出品し、一挙に上映された。個人映画が初めて大ホールで上映され、映画は見るものとされていた常識が壊れ、自分で作る時代になった。
 時計の秒針が動くだけの刀根康尚の作品、コマ落としでコミカルな大林作品、フィルムに穴をあけただけの飯村作品は、目が痛いと観客に抗議され、「目をつぶっても、光は感じます」といった。