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よみタイムVol.83 2月22日発行号

 [其の16]



国連のためのチャリティー・ファッションショウのフィナーレ(中央がヤオ)

独自の美追求したユキ・ヤオ
王妃のガウン専属デザイナーに
病床でも「アイディア次々湧くんだ」

レーガン大統領から届いた感謝状

  「あの、ここでガウンを仕立てていただきたいのですけど」。
 マディソン街に近い60丁目にあったヤオの宝石店に、通りがかりの中年の女性づれが訪れた。もともとヤオのオリジナル・デザインの宝石店で、ウィンドウショッピングをしていたナンシー・レーガンがヤオのデザインしたネックレスに釘付けになり、衝動買いをしたこともある。
 その後、そのネックレスをつけたナンシー・レーガンの写真が何度か新聞に載っていた。80年代になり、二度も盗難に遭って店内にあった宝石をすっかり失くしてしまってから、ヤオはファッション・デザインを手掛け始め、ウィンドウには宝石デザインと一緒にヤオのオリジナル・ファッションがディスプレイされていた。
 1か月後のパーティーに間に合わせて欲しいと言われ、ヤオは早速取りかかった。
 豪華なパーティーで着られるガウン。ヤオの才能がもっともよく発揮できるチャンスだった。品格のある優雅さを表現すためにふんだんにブルーのサテンを使い、しかもちょっとしたからくりで、イブニングにもアフタヌーンにも早変わりする仕掛けまで作った。
 襟がフードに早変わりし、長い裾は取り外されるとしゃれたスカートが現われる。ファッションの常識にとらわれないヤオは、立体的でアンバランスな仕掛けをデザインに組み込むのが得意だった。
 しかし、1か月近く経ってもその客からはなかなか連絡がない。ある日、突然、明日パーティーがあるので、ガウンを持って来てほしいと連絡があった。行く先はパームビーチ。ヤオはすぐに飛んだ。注文主はビザンチン帝国皇帝の末裔パレオローグ家の王妃フランソワーズだった。
 世界中の上流階級の人々の大きなパーティーで、仮縫いもしないで王妃がまとったヤオのガウンはその豪華な美しさで注目を集め、特にドラマチックなデザインの早変わりは衝撃的だった。
 ヤオはその場で喝采を受け、その後は、王妃の専属デザイナーになり、ビザンチン帝国の名誉市民とであることを許されていた。
 今年1月、その古典的な優雅さと現代アートを連想させる斬新なアイディアでソサエティの女性たちを魅了してやまなかったファッション・デザイナー、ユキ・ヤオが亡くなって、今さらながらその才能が惜しまれている。
 80歳に手が届こうとしていたのに、見るからに若く、FITに07年度の世界トップデザイナーの一人に選ばれたりして、これからさらに花開くという印象を与えていた。
 生まれたのは中国。戦時中、父親は現地で軍需産業を起こして成功し、何十もある家に住んで、たくさんの食客がいつも滞在している中でヤオは育った。  
 母親は仏教徒で、貧しい人たちを見つけては必要なものをこっそり渡すという人だった。富豪の家だが、目線はいつも不幸な人に向き、助けることができれば、それを喜びとしていた。
 終戦、裸同然で故国への引き揚げ、父の死と人生の転機が訪れる。戦後の困難な暮らしを支えながらイタリアへ留学し、建築を学んだ。その後、日本で知り合ったアメリカ人を頼り、アメリカに渡る。
 ニューヨークで仕事を探しているうちに高島屋で活け花の即売をするようになる。さまざまな花瓶にその場で花を活け、『月の雫』など、ロマンチックなタイトルをつけて並べると、飛ぶように売れた。
 今は改造されて跡形もないが、旧日本クラブのロビーや会議室のインテリアをデザインしたのがヤオだった。
 薄暗い間接照明のロビーの中央に自然石をあしらった池があり、鯉か金魚でもいるような趣きがあった。会議室は、渋く重厚ななかに鹿鳴館的華やかさを感じさせるもので、ヤオらしい凝った造りだった。古い取っ手がついたような正面の扉もよかった。日本の美しさを、ヤオらしく表現していた。
 どんな素材でも、美しいオブジェに変身させ、人を魅了するのが、彼の才能だった。病室で「寝ていると、次々にデザインのアイディアが湧いてくるんだ。スケッチブックを持ってきてくれる」と姉の史子(ちかこ)さんに頼んでいたという。
 彼はその才能を惜しげなく使い、社会活動をもした。さまざまなファッションショウで得た収益は、必要な活動に使われ、その礼状は束になって保存されている。