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 よみタイムについて
 
よみタイムVol.101 11月21日発行号

 [其の25]


時代の鋭い観察者 筑紫哲也さん
情報を自分の感覚で捕らえる
若くて個性的な人クローズアップイ

在りし日の筑紫さん。著書「旅のあとらんだむ」から抜粋=1984出版

麻雀が一番の趣味で
04年「近代麻雀」の表紙を飾った

 勝手な思い込みなので、筑紫さんにはぜひお許しをいただきたいのだが、訃報に接した時、また戦友が一人消えたという思いがして、悲しかった。とくに一緒に何かしたということはなかったが、共通の知人がたくさんいて、日本へ行った時など、なにかというと筑紫さんの噂話を聞かされていた。
 ほとんどは昨日の麻雀とかジャーナリスト関係の仲間うちのこととかで、テレビの番組のメインキャスターの仕事に追われる筑紫さんが、いくつもの規模の小さい雑誌やイベントなどに細かく関わっていることが感じられた。
 筑紫さんは、インターネットによる情報がすぐに手に入る時代のジャーナリストではなかったので、朝日新聞社という大新聞社の記者でありながら、記事は筆でなく足で書けと言われ、取材のためにどんな所にも踏み入り、特ダネを追った。そういうライフスタイルが、今でも当時の新聞記者たちをちょっとヤクザっぽくもきざにもみせかけている。
 大声でよくしゃべるが、重要なことは決して言わない。他人の語りを真剣に聞くが、本当は、その語り手が言うまいとしている言葉を注意深く探っている。
 筑紫さん自身がそういう新聞記者だったかどうかは別として、彼の仲間のジャーナリストには、そういう人が多い。
 筑紫さんは、朝日新聞の記者からキャリアを積み始め、やがて来るテレビジャーナリズムへと移行して日本の文化革命時代をメディアの上で体現した代表的ジャーナリストといえるだろう。
 その仕事の種類はあまりに多いが、私にとってもっとも忘れられないのは、週刊誌『朝日ジャーナル』編集長としての仕事である。
 新聞社発行の週刊誌としてはむしろ特殊なこの雑誌は、変化する60年代から80年代にかけて日本の雰囲気を明確に反映し、さらに刺激し促進する役割を果たしていた。
 ベトナム反戦の時代から激しい学生運動の時代、その後は脱伝統、反体制文化の時代へと、時代は進んでいく。斬新な視覚、音楽、文学の実験、広告媒体、その多様な表現が豊かな社会に泡のように生まれてくる。
 筑紫さんの『朝日ジャーナル』は、その時代の気分をあおるように紹介した。それまでイデオロギー的な言葉だった自由
の感覚を、「創造の自由」として初めて日本に紹介したのがこの週刊誌だったような気がする。
 ほんとにいつも、次々と若い、クリエイティブな人たちが筑紫さんのインタビューに登場した。デザイナーだったり、フォークシンガーだったり、コピーライターだっ
たり、抽象的な写真家だったり、若くて、自由で、個性的で、夢のような人ばかりだった。
 スーツを着た会社経営者のような人は登場しなかったような気がする。筑紫さんはこうした人たちをクローズアップしながら、自分はけっしてヒップにはならず、醒めた目をしたままだった。
 社会の底の流れをじっと観察し、それを自分のメディアに写し取っていったのである。メディアはそれ自身がしゃべるものではなく、ものの本質を汲み取り、メッセージとして送りだす媒体であることを、筑紫さんはよく知っていた。
 溢れる情報を持て余す今の世代とは違い、前インターネット世代のジャーナリストの筑紫さんにとっては、情報は自分の感覚で捕らえたモチーフだった。メディアは、それらをもとに自分の才能が創り出した作品だった。ただの情報ではない。だからその影響が大きかったといえる。彼は自分の演出で動く世の中を見て、ほくそ笑んでいたのではなかったかと、私は思っている。