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 よみタイムについて
 
よみタイムVol.103 12月26日発行号

 [其の26]


和田誠と横尾忠則と矢崎泰久

60年代文化を先取りした
雑誌「話の特集」の先駆者

和田誠はクリエーターの才能存分に

矢崎泰久は新聞記者の感性で世の中動かす

創刊からユニークな表紙描く横尾忠則

  日本の代表的イラストレーター、アーティスト、フィルムメーカーである和田誠さんも横尾忠則さんも、大袈裟だが、『話の特集』という、60年代の日本に独特の文化現象を創りあげた月刊誌抜きに、それぞれの創造的人生は考えられないだろうと私は思う。
 私自身、この雑誌の創刊に深く関わった。新卒で入った出版社の社長の息子である矢崎泰久氏に、新しい雑誌を出したいけど協力してくれる人を知らないかと言われたのだ。転職して化粧品会社のコピーライターになったばかりだったから、知っている人といっても仕事の周囲にいる人ぐらいしかいない。
 私の仕事はPR誌の編集で、周囲にはいつも一流のデザイナー、写真家、イラストレーターたちがいた。それではと、まず和田さんを紹介したのは、彼の勤めている広告会社が矢崎さんの出版社と近く、会いやすいと思ったからだ。
 でも、自信家で頑固な和田さんと元新聞記者らしくつっぱるクセのある矢崎さんが初めて会うのだから、私は矢崎さんに警告した。「カレ、すごい才能のある人だけど個性が強いから、気をつけないとケンカになるかもしれないわよ」。
 私としては、お互いに一筋縄ではいかない人だからそう言ったのだけど、このことは後で矢崎さんがみんなに言いふらしたので、いつまでも逸話として残ってしまい、和田さんには今でも後ろめたい感じが消えない。
 すべてはここから始まった。初対面は私の警告がきいて、矢崎さんが和田さんに心服するという珍しい形で終った。
 クリエイティブな部分はすべて和田さんが監修する。その代り編集者は和田さんに一切文句をいわない。和田さんへの報酬はいらない。この一点で、矢崎さんは全面降伏だったろう。
 何しろおカネがなかった。原稿料どころか印刷費その他、雑誌出版には莫大な資金が必要だ。それを矢崎さんは出版社社長の父親の信用に頼ろうとしていた。和田さんの素晴らしい友人たちがどんどん集まって、それぞれ自由に素晴らしい作品をよせた。デザイナーや写真家たちだ。無料で、その代わりどんなことをしようと、編集は一切文句をいわない。横尾さんは、創刊から3年くらい表紙を描いた。
 矢崎さんは「表紙としては地味だな」とぼやいたが、もちろん横尾さんにも和田さんにも言わない。和田さんがその後を継いだ。今となっては、どれも時代を先取りした
ユニークな表紙絵だった。
 暴露ものやマンネリな芸能週刊誌が全盛だったときに、和田さんオリジナルの構成、レイアウト、イラストによるA5版中とじの小さな月刊誌は、小さいなりにアートの匂いがした。写真、イラストなどビジュアルなものがていねいに、適切に扱われた。
 商業美術界で何回も受賞しても、絵も写真もイラストもコピーも広告会社の広告作品の一部として扱われるので、クリエーターの名前は一般には知られない時代だった。それがアーティスト名として活字になっている。
 美術学校でも、やっと図形科がデザイン科に、挿し絵がイラストレーションに、工芸がクラフトに名称が変化し始めていた。私も、試験を受けてコピーライターとして
採用されたのに、実際に仕事をするまで、コピーライターとは何かをコピーするのかと思っていた。ファインアート以外のアートを扱うというのが新しく、『話の特集』は時代を先取りしたハイブローな雑誌としてマスコミにとり上げられた。熱狂的なファンもできたが、売り上げは限られていて、矢崎さんは苦労していた。
 和田さんは、仲間に呼び掛けて資金集めにも動いたという。この雑誌は彼のライフワークに近かったのではないか。日本の知識人、文化人、若者などへのこの雑誌の影響は大きく、これが60年代の文化の一つの原点とさえ言えた。執筆を希望する大作家もいたが、矢崎編集長は、和田さんがノーを出すと、そうした原稿もボツにした。
和田さんは。存分にやりたいことをやれたと思う。この頃の日本の子供たちの「将来の夢」は、「デザイナー」が圧倒的だった。
 横尾さんは広告会社をやめ、独立した事務所を構えていた。三原橋に近いそのスタジオに原稿をもらいに行ったのは、『話の特集』の創刊準備の時期だった。
 光りに向けて似た絵が3点ほど立て掛けてあった。「この内から1点選んで」と、彼は言った。夕日の中で、タヒチのような南国の風景画の濃いヴァイオレットと濃いグリーンが強烈だった。遠近の異なる3つの風景の中から、私は中間を選んだ。昼も夜も働いていたから私は疲れきっていて、帰りのタクシーの中に、筒状にしたその絵を置いてきてしまった。翌日、私は東京中のタクシー会社に電話して訊ねたが、見付からなかった。ついに、横尾さんに電話して事の次第を話すと、「いいよ、また描くよ」と、あっさり言ってくれた。私としてはそれで幕は降りた。それなのに、その後、矢崎さんにずっと言われ続けている。「あの絵、持ってるんじゃないの?」

日本のポップアートNYに登場
創造に燃えていた若者たち


 あの頃の横尾さんは、まだ今のような天下の大アーティストではなかったし、欲しかったらちゃんと「ください」と言っただろうにと、私は恨めしい。
 横尾さんと電車で一緒に帰った。電車の中で、これからギュウチャンのオープニングに行くと私が言うと、横尾さんはふっとため息をついて「ぼく、篠原さんのファンなんだ」と言った。「では、いっしょに行きましょう」と誘うと、「でも、ぼく、知らないから」とたじろぐ。
 意外だった。どうして代表的な現代アーティスト同士が繋がっていないのだろう。
 「じゃ、紹介するから」と言うと、横尾さんは行く先を変えて、新橋まで一緒に来た。ギュウチャンこと篠原有司男は、モヒカン刈りの頭を振りながら、ボクシングの練習のように大勢の客と格闘していた。横尾さんを紹介すると、あっさり「あ、そう」と一瞥しただけでどこかへ行ってしまった。横尾さんはもぞもぞして居心地が悪そうだった。私は謝った。その後すこし経って、「篠原有司男と横尾忠則の2人展」が行われた。その垂れ幕を見て、私はなんだか暖かい気分になった。
 1968年、私はニューヨークに来ていた。突然、横尾さんから「ニューヨークに来ている」と連絡をもらい、セントマークスにあったディスコ、エレクトリックサーカスの前で会った。アンディ・ウォーホルやベルベット・アンダーグラウンドが出入りしていた所だ。ヒッピーが群れ、線香の匂いが鼻についた。横尾さんのポスターが近代美術館で展示されることになったという。
 日本のポップアートがついにニューヨークに登場した。私は有頂天になって、イーストビレッジを案内した。
 60年代の若者たちは、消費でなく創造に燃えていた。古典や伝統は、もちろん優れた文化の堆積なのだが、彼等には形式に捕われ、変化や異端を拒む窮屈なものと思われていた。ベトナム戦争の拡大の中で、不安に圧され、今の自分を確かめるために新しい表現の追求が盛んで、同時代の人もその方向に傾いた。
 矢崎さんも、廃刊まで30年間、和田さんの才能に降伏し、経営に苦しみながらも、彼の書いたものや企画は、元新聞記者らしい感性の鋭さでこの雑誌を性格づけ、存分に世の中を動かした。やはり、彼にとっても、『話の特集』はライフワークだったといえよう。この雑誌のスタートを飾り、名作をいくつも載せたこの雑誌は横尾さんにとっても、特別であるはずだ。
 そのスタートを作った自分を、私はほめてやりたい。