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よみタイムVol.129 2010年1月29日発行号

 [其の38]

画家・佐々木健二郎
芸術全体のアカデミズム
音楽史本を出版して探究

 壁に掛かった一枚の絵、あるいは耳に入る音楽の素晴らしい演奏、それだけでその部屋の性格が決まってしまうことはざらにある。アーティストは、ほんとにヒーラーである。 
 佐々木健二郎さんは絵描きである。最近、その佐々木さんは『米国クラシック音楽ガイド』という音楽史の本を書いて出版した。佐々木さんはなぜ、この本を書こうと思ったのだろうか。
 「音楽ばかりでなく、芸術全体のアカデミズムがどうなっていくのか、考えてみたかったんですよ」と、彼は言う。
 この本を読むと、アメリカには植民地時代から、ヨーロッパの影響を受けた作曲家たちによるクラッシック音楽が数多く作られてきていたことがわかる。ただ、佐々木さんも述べているように、音楽は聴衆の前で演奏されなければ完成しない。いい曲といい演奏者といい聴衆。感動、興味が人を動かし、曲が広まっていく。今、私たちが馴染んでいるアメリカ人によるアメリカのクラシックは、この本のいうように、ほとんどが政治的理由などによるヨーロッパからの移住者の作品である。
 アメリカの音楽が世界に轟くのは、ミュージカルやジャズ、ロックやポップスが、素晴らしい才能を持つ演奏者、歌手、ダンサー、パフォーマー、演出家などを得て出現してからである。しかし、これらはクラシックといえない。
 そこで登場するのがジョン・ケージなどに代表される前衛音楽。この種の音楽はヨーロッパ、とくにドイツでは、クラッシックの延長として存在していた。
 決してアメリカ発生のものではない。しかし、ケージ以後、いわゆる音楽の概念が大きく拡大したことは、誰も否定できない。
 音楽の楽音は、譜面に書かれた特定の音からもっと範囲を広げて雑音や無作為の音、自然の音、テクノロジーによる人工音、静寂(無音)、さらに、ステージの上のパフォーマンス、聴衆の反応まで、音楽に含まれるようになった。演奏者はコンピュターのモニターを見ながら演奏し、時折、音も出さずに指定の動作をしたりする。
 これは、クラシックなのか?
 佐々木さんは、歴史的に書き進めたこの本の最後に、前衛音楽を持ってきている。つまり、アメリカのクラシック音楽史における現代の音楽は、前衛音楽であるということになる。
 これは、美術においてもいえる。ポップアートが60年代に花開いてからアートは何でもありになった。アートの領域がほとんど無限に拡大したからだ。既成の作品、人工的オブジェ、ゴミにまでモチーフを拡大したのは表現者であるアーティスト自身だった。
 時代はこれを受け入れ、映像まで巻き込んで、さらに拡大した。この動きがアメリカから始まったのは偶然ではない。古典的技術に頭を押さえられたヨーロッパより、アメリカにはまだ開拓者精神のエネルギーと自由があった。アカデミズムはどうしてもアナクロニズムにならざるをえなかった。
 クラシックはなくなったのではなく、形を変えていつもここにあると、私は思う。
 変な言い方だが、クラッシックは自由だ。今世界中で制作されている無数の現代アートの作品の中で、クラシックとして後世に残るものがどれなのか、私にはわからない。でも、インスピレーションを得て最初に発想を転換し、それが時代に受け入れられたアーティストの功績は大きいだろう。
 これこそエポックメーキングで、これは技術の問題ではない。アルタミラの洞窟で絵を描いた人のように、その時代の空気に突き上げられ、内面の衝動に素直に従ったかどうかの問題だ。アートはつねに時代を先取りする。
 ベニス・ビエンナーレは、世界的現代美術のショウだが、あの会場を取り巻くあの都市の、ルネッサンス時代の荘厳な建築群と比較すると、現代がどんな時代か思い知らされる。
 どっちがいいという問題ではない。この21世紀という時代が、次世代にクラシックとして遺すものは何なのだろう。