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よみタイムVol.65 5月18日発行号

 [其の9]



小田さんと筆者(NYで1990年頃)

巣鴨刑務所にいた戦犯の残した手紙に見入る小田さん

平和目指した社会運動家・小田実(おだ・まこと)
社会の底の理不尽な不平等に抵抗
「なんでも見てやろう」で人生再出発

 日本と周辺のアジア諸国、そしてその一般市民をも巻き込んで、史上最大の被害を人類にもたらした4年間にわたる大平洋戦争。それを指揮し、敗戦後は巣鴨刑務所に収容されていた戦犯たちが、獄中で作った工芸品、デッサン、書、ノートなどの展覧会がチェルシーの画廊で行われたのは今から10年も前だ。
 戦後の占領時期に日本に駐留していた元米兵が、帰国する時に戦犯からもらった品々で、材料はタバコの空き箱、紙屑などゴミのようなものばかりだが、その精巧さには一種の偏執さが感じられて、ただの器用さではかたづけられないものがあった。
 たまたまニューヨークを訪れていた小田実氏をそこへ案内した。
 壁に展示されたA級戦犯の読みにくい手紙に、じっと目をこらしている小田さんの横顔は、鷲のように攻撃的だがどこか悲し気で、手紙よりも向こうの方を見ているように思えた。あのいつも大声でコメントする小田さんは、この展覧会について何も言わなかった。
 気弱で、平凡なこの手紙は、あの戦争を強行した権力者のものとは思えなかった。
 愚かな奴と、小田さんは思ったのかもしれない。しかし、その愚かさの引き起こした歴史的災害の責任は問われなければならない。
 「平和」は、社会運動家としての小田さんの枕詞だ。川端康成賞受賞作家として執筆活動も旺盛だが、いつも社会の底に重く沈む理不尽な不平等や矛盾を、机上で考えられた権力指向の政策で運命を狂わされた人々に託して、小田さんらしい熱い思いで描きあげている。
 戦後、海外留学第一期生としてアメリカへ留学した小田さんが帰国後に書いた『なんでも見てやろう』は、歴史的大ベストセラーとなった。まだ海外旅行は自由化されず、そんな経済的余裕もなかった日本人にとって、この本は世界への窓だった。しかし、小田さんの目を通して見られた世界は、観光旅行のガイドではなかった。戦後の塗炭の苦しみからどうにか抜け出そうとしていた日本人に小田さんが示したのは、世界にはびこる救われない、根源的な不平等、不幸、不運、悲惨、貧困、怒り、諦め、嘆願などだった。この原点から小田さんの人生は再出発した。
 ベトナム戦争の脱走兵をかくまって安全な国に送った反戦運動のグループ、ベトナム平和連合(ベ平連)のリーダーとなり、60年代、反体制文化の原点となった。
 小田さんがニューヨークに現れたのはニューヨーク州立大学ストニーブルック校で、1年間日本文学の講座を持つことになった1989年ころで、夫人の玄順恵(ヒョン・スンヒェ)さんと一人娘の奈良さんがいつも一緒だった。奈良さんは当時7歳だったが、小田さんがまくしたてる平和論に、不思議そうにじっと聞き入る利発そうな子
どもだった。
 小田さんはニューヨークに上陸した大型台風のように、さまざまな人間を自分の圏内に引き入れて、ニューヨークでも社会運動を盛り上げようとした。大学の教授、学生、職員、ジャーナリスト、弁護士、会計士、会社員、昔一緒に活動した人、アーティスト、小田さんの崇拝者など、多様な人が集まり、議論し、活動のためにレターヘッドまで印刷されたが、あまり大きな運動にはならなかった。小田さんは人の集まるエネルギーが好きなようで、家でよくパーティーを開き、招かれた「えせ運動家」たちは順恵夫人の韓国手料理を楽しんだ。
 おかげで、ストニーブルックによく出かけることになった。小田さんと同じ大学の教授を夫に持つオペラ歌手の尾島陽子さんもよく顔をみせた。しかし小田さんの帰国とともに、出かけることもなくなった。
 当時、第一次湾岸戦争を巡って、国連安保理は紛糾していた。絶対戦争を許さない小田さんはどこでも声を荒げて、叫んでいた。「原理原則に戻れ!」。
 国連創設時にそこに込められた世界の国々の願いは何だったのか。それを思い出せ。
 今、小田さんは同じことを憲法九条改正を主張する人々に言っている。
 「日本人がこの平和憲法にこめた思いを、もう一度思い出せ!」。
 あまりにも多くの犠牲を払って得た日本の平和憲法を守りたい小田さんだが、まだ絶えまなく生まれる新しい世界の悲惨を知るたびに、体力の限りを尽してその救済に飛び回って自分のすべてを賭けて闘っている。世界は悲惨に満ちている。
 神戸の震災では、小田さんも被災者で、危うく倒れかかる本箱の下敷きになりそうだったのを、コピーの機械のおかげで助かった。小田さんはすぐに震災被害者救済運動を始め、災害被災救援法の市民立法をはかり、国会前でデモもし、議会を通過させたはずだ。
 地震で寂れた芦屋の商店街を小田さんの案内で歩いていた時、一人の主婦らしき人が小田さんのそばに寄ってきて、言った。「小田さんですね。復興させてください。お願いします」。小田さんは黙っていたが、後で一言、「自分がしなければだめだ」。
 小田さんの東大での専攻はギリシャ文学だったという。民主主義発生の国のギリシャ。そこの偉大な哲学者ソクラテスは言ったそうだ、「一番いいことは、生まれてこなかったこと。二番目にいいことは、もし生まれて来てしまったのなら、なるべく早く元の所に戻ることだ」と。
 お釈迦様も人の一生は「生老病死」だと言った。こういう苦渋の人間世界で、平和憲法は世界の奇跡だと、小田さんは言いたいのだろう。